しかし、私が働いていた会社が事業廃止により私は離職する羽目に。
大好きだった会社、大好きだった仕事、その時はショックでした。
離職票をもらい、失業保険を頂きながら、毎日ハローワークに通い仕事を探しました。
そして、やっと、長かったアルバイト生活から脱し、26才で、電気工事、情報通信設備業の会社に就職しました。
今まで働いてきた仕事とは全く違う分野の職種だったので、入りたての頃は、職場の方に、「ど素人?」など言われ凹んでしまったり、右も左も解らず飛び込んだ世界、当然ですが、足手まとい、使えねぇなぁ~みたいな冷ややかな目、もう必死で覚えようと、とにかく、「仕事は見て覚えるもの」と、仕事中、常に教えてもらった事はメモに取り、自分からも積極的に、「教えてください」と、もう、本当に必死でした。
数か月して、やっと徐々に慣れてきて、「お前」って呼ばれていたのがやっと自分の名前で呼んでもらえる様になり、少しずつ認めてもらえる様になったのです。
そうしたら自然と、仕事も任せられる様になり、職場の人たちとのコミュニケーションも図れる様にもなりました。
でも、ガテン系の仕事だっただけにハード、体力がものをいう。
朝早くから、夜遅くまで、毎日毎日身体はクタクタ、仕事が終わり、帰宅する度に、疲れた・・・しか出てこない、そんな日々でした。
帰宅しても、仕事で教わった事は忘れない様にと、復習作業などしておりました。
そんな姿を見ていた彼女は、精神面でも、体力面でも心配してくれていていました。
でも、働かない事には生活出来ないので、いくらしんどくても辛くても無理してでも行っていました。
彼女も彼女で仕事を頑張っていたので、私は弱音を吐いたりしてしまった事もありましたが、自分が頑張る事で彼女も安心するという気持ちも解っていたので、それが頑張れる源でもありました。
仕事の波にもうまく乗っていた矢先だったのですが、彼女との生活の中で、結婚しようかと話しになり、このまま結婚するか?どうするか話し合い、彼女は、結婚を考えているなら両親のいる実家の近くで暮らしたいと・・・
彼女も前々から、もし結婚を前提となれば、両親から、実家の近くで暮らして欲しいと、娘は近くにいて欲しいと言われていたそうです。
私も、今の仕事がとりあえず落ち着いている事、今の生活のままで結婚してもいいんじゃないかと、悩みに考えました。
結果、私も本気で結婚を考えていたので、彼女の意思を尊重して、今の仕事を辞め、東京から出る決断をしました。
勿論、自分の両親にも相談しま。
はじめは、そんなに結婚自体急ぐものでもないし、よく考えた方がいいというな、心配の中に半ば反対意見な事も言われました。
でも、最終的に決めるのは自分自身で、もうその時点で迷いはなかったです。
私は退職し、東京を離れる準備を始めました。
ただ、不安だったのは、移り住んで仕事が直ぐに見つかるか、それが不安でした。
お互いの両親が顔合わせ挨拶を済ませ、彼女の実家近くに居住、新たな同棲生活が始まりました。
今思うと、結婚しようの話しから移り住むまで、とんとん拍子だった気がします。
新たな暮らしが始まり、先ずは私はまた失業保険を頂きながら仕事探しからスタートしました。
東京とは違って、そんなに早くは仕事は見つからないだろうと覚悟はしていました。
初めての地で、やはり苦戦しました。
探せば意外とある事はあったのですが、今後の事を考えると、出来れば長続き出来る仕事がいいと、贅沢は言ってられませんでしたが、職種や、お給料面などいろいろ考えながら探し、いくつか面接に挑みました。
いくつか面接していく中で、これなら自分には合っているんではないか、やっていけるんではないかという、自分自身にも納得が出来る仕事が見つかり、彼女もいいんじゃないのと言ってくれたので、少し時間はかかりましたがようやく仕事に就く事が出来ました。
それまで、仕事の面で、彼女のご両親も心配していたので、ホッとしました。
ただ、通勤手段はバイクに限られました。
なにせ、交通機関はバスぐらい、電車も駅さえ行くにも時間がかかる。
とにかく、どくに行くにも車やバイクがないと生活が出来ない土地でした。
でも、東京で働いていた時も常にバイク通勤でしたし、元々バイク好きですし、通勤自体も楽しみの一環でした。
約4か月程度、その会社に勤めていたのですが、入った当初は続けていける自信があったのですが、ある事が切っ掛けで、転職する事になりました。
簡単に言えば、会社との折り合いが自分の中でうまくいかなくなってしまったんです。意にそぐわない点もありました。
そして、転職しました。
転職先の会社は、入社したら、求人内容とは全く異なっていてビックリしてしましましたね。
特に勤務時間ですが、8時間労働以上。
入った初日から、いきなり残業でした。
その残業時間も、終わってみたら夜の11時を過ぎている。
帰る頃には深夜0時を過ぎている。
おまけに朝も早い、それから毎日残業残業、残業は当たり前。
残業手当はちゃんと出ていたものの、さすがに帰宅したらもう疲れて、直ぐに寝ないと体力を持たないので体調管理を維持するだけでも大変でした。
でも、辞める訳にもいかないので、常に備える事を心掛けていました。
しかし・・・
やはり、徐々に身体は悲鳴をあげてきました。
体力面というより、精神面で。
そして、ついにその時はやってきました。
もう、朝起きるだけでも辛くなり、起きても身体はフラフラ状態。
それでも、何とか気合を振り絞って行く日々。
もう限界でした。
やがて、行けなくなりました・・・
そしてついに・・・
そんな私の姿を見た彼女は、「将来が不安になった」と、家を出ていきました。
その時点で、別れとなった訳です。
私は、ただ呆然とするしかなかったです。
そして、また失ってしまったと・・・
現実、仕事も彼女も。
そしてその時私の頭に過った事。
自分を見失い、生きる意味も失いました。
自暴自棄になりました。
もう、生きていたくないと・・・
そして、そこから私の取った行動はもう決まっていました。
また過去にやってしまった事と同じ、大量の薬を服用し、お酒を飲み、やがて意識を失っていました。
そんな事で死ねる訳がないとは解っていましたが、私にはそれしか思いつかなかったのです。
自暴自棄、自分を見失った時点で、それしか選択肢がありませんでした。
そして、意識朦朧の中、気づいたら目は覚めていました。
しかし、その時、直ぐに身体に違和感を感じました。
下半身に感覚がなかったのです。
あれ?と思い、立ち上がろうとしても立ち上がる事が出来ない。
腰の辺りから指先まで、両下肢を触ってみても全く感覚がない。
その時は、一時的なものだろう・・・
少し様子を見れば治るだろう、甘い考えでした。
でも2~3日経っても一向に治らない。
さすがに焦りました。
彼女もいない、この地で誰も助けを求められる人なんていない。
最終的に、こんな事で親に連絡はしたくなかったのですが、今は頼れるのは親しかいない、迷惑かけるけど・・・
父親に連絡し、全て事情を説明し、父親は直ぐに駆けつけてくれました。
父親が来て、私の変わり果てた姿を見てショックを受けた顔、今でも鮮明に覚えています。
私もこれ程の親不孝者はいないなと思いました。
状況が状況なだけに。
私は申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
父親は、当時は働いていましたから、仕事が終わっては遠い所まで来てくれました。
ご飯を買ってきてくれて食事の用意をしてくれたり。
しかし、その間、私の両足は依然動かぬままでした。
一週間程して、父親は、「もう病院に行こう」と。
病院に行きました。
診察を受け、医師から、直ぐに入院と告げられました。
足の問題もありましたが、急性腎不全も併発していたのです。
とりあえず一週間入院してみましょうとなり、その日から入院する事になりました。
私は病棟に入り、父親だけが医師に呼ばれました。
後から聞いた話し、その会話の中で、医師から、「もう一生歩けないかも知れない」と告げられたそうです(薬の副作用により神経を傷つけてしまった為)。
これも後から聞いた話し、父親は実家で、声を嗄らして泣いていたそうです。
それから私の入院生活が始まりました。
さっそくリハビリも取り入れられました。
足のマッサージから、両手で鉄棒に掴まりながら歩行訓練、歩行器を使っての歩行訓練、やがて装具を作られ装具を装着しての歩行訓練。
リハビリを終えても、自力で歩行器を使っての訓練も行いました。
一週間程度の入院予定だったのが、結果的に約3か月間入院しました。
しかし、退院するまで、依然として私の両下肢は自力で動かぬ、歩行出来る事は出来ませんでした。
退院して、実家に戻り、私はもう絶望の日々でした。
母親からは、「疫病神」扱いされ、それを言われた時言い返す事は出来ませんでした。
確かに私は家族にとっては疫病神でした。
最大の親不孝者、私という存在を消したかったです。
毎日毎日寝ているだけの生活。
トイレに行くにも立ち上がるだけでも大変、常に何かに掴まっていないと倒れてしまう。
部屋では一日中横になっているだけしか出来ない。
リハビリをしようとも、医師から「もう一生歩けないかも知れない」と言われた以上、絶望感から、もうどうせ一生歩けないんだったらリハビリしたって意味がないって諦めかけていました。
そんな日々を送る中、ある時、私と同じ様に半身不随になってしまった方がリハビリを頑張って歩ける様になった事を知る事になりました。
その時私は正直鳥肌が立ちました。
「やっぱり諦めてはいけない」
「もう一度自分の足で歩きたい」、その気持ち一心で、両手松葉づえで毎日歩行訓練リハビリを開始しました。
毎日、毎日・・・
そして・・・
約3年半かかりましたが、普通に歩けるまで回復しました。
もしかしたら、今まで生きてきて、その時が一番幸せに感じた瞬間だったかも知れません。
そして現在は、多少後遺症は残っておりますが、特に生活に支障をきたす事もなく普通に歩いております。
発症当初『うつ病』だったのが、現在は病名が変わりまして、『双極性障害2型』という精神的病を抱えております。
前は、病気を受け入れられない自分がいました。
でも、今は病気を受け入れて生きております。
正直、今も、たまに自暴自棄になってしまったり、「死にたい」と思う事もあります。
しかし・・・
過去があるからこそ今の自分がある。
私は、死にたいと思っても死ぬ勇気なんてありません。
自ら命を断つにも、自分の親よりも先に死ぬなんて、それこそ最大の親不孝者だとも思います。
私はこれから、今までお世話になった人たちに少しでも恩返し出来る様に、自分の出来る範囲内で努力して生きていきたいと思っております。
自己紹介的には長くなってしまいましたが、ここまで読んでくださり誠にありがとうぞざいますm(_ _)m
またお目に留まって見て頂けたら幸いです。
