観劇の楽しさが大人になった今でも、子供の頃のそれと変わらないことを実感できた日だった。
 
 何はともあれ、楽しかった。どんなところが?
 笑顔を誘うユーモアが終始たっぷり散りばめられていた。そして、その芸を到底真似できないと実感するからこそ生まれた「すごい」という感想。見ていると伝わってくるのは、体全体で表現される、登場人物としてのその人の心。
 感情の理由とその程度加減に対して、自分の理解度が高い状態で物語を追うことができるというのは、楽しい。浮きも沈みも一緒に楽しむ感覚において登場キャラクターとの一体感が得られる。自分が、さっきまでのただの自分ではなくなる。それは、テレビでドラマなどを見ている時にも起きることかもしれないけれど、目の前でその場面が起きているという臨場感は凄まじいと感じる。緊張感が伴い、自分も参加している気になり、目と耳だけでなく肌に迫ってくるような立体感のある現実として受容されるのだ。

 どうやら自分には演じる人について、全力で好感を抱いてしまいがちな節がある。前々からそんな気はしていたのだけれど、やはり本日ももれなくそうだった。理由を考えてみようかな。

 第一に、演じる人、パフォーマンスを披露する人に対する尊敬の念は、これでもまだ足りていないだろうと思う。彼らの努力とその年月と、何度繰り返されただろうか修正に研鑽に、発表後の評価を受ける一喜一憂とのメンタル面の苦難に、と想像は想像でしかなく行き止まる。

 第二に思うこと。一発本番のやり直しの効かない舞台だからこそ、失敗も、アドリブも起こるだろう。実際今日も頭から終わりまでその連続だった。だけどもそれに関わらず、表情も、声音も、身振りも、眼差しも、とても自然で、無邪気で、可愛らしくて素敵だった。
 それを乗り切るのに必要なのは経験なのかもしれない。経験を積みに積んだベテランさんの仕事だからというのも納得がいく。
 しかし、どうにも私には、今日見た彼らの姿から、この舞台をやろうとしている意味や動機の部分であったり、嘘偽りないその人の素直な本音のあり方が、後者は特に失敗やアドリブから見えてくるように思うのだ。
 それが、たまらなく純粋で、たまらなく綺麗に見えた。
 心がなんせ「いいね」と思って高評価ボタンを押しまくったのだ。
うん。なので、私にどんな傾向があるかはひとまず忘れて、(興奮はちょっと冷めてきた頃合いなので大ではなく、)程よく声を中くらいにして言いたいと思う。
「あなたたちが大好きだ。楽しかったです。ブラボー」