昔、と呼んでいいくらいに自分にとっての過去の日々。
親しくしたことのある人。楽しい時間を共有した経験のある人。好きも嫌いもお互いに感じたことのある、多面的に理解した相手。その当時は、そうだった相手。
久しぶり。ご無沙汰してます。
呼び方はどうしたらいいのか、あの頃のままでいいのか、いや今の自分たちの距離感だと失礼だろうか。
そんな交わそうとする言葉にすらいちいち思案する。
そんな相手との再会。
人は変わっていくことを、強く悲嘆したことがあった。
自分の知らないその人のこと、思い知らされるその片鱗を、見せないでほしいと心が拒んだ。関係が自然と途絶えたんじゃなく、自分がそう願ったから招いた結果として糸切れた。
自分の期待に相手がどんどんあぶれて出ていってしまうことが、許せなかっただけだった。
今年の春。
変わらないことも、実はあるのだと知った。何度かそんな機会があった。
過去の記憶と違う、だけど過去の記憶に一致するその人の姿は、懐かしくて、嫌な記憶をつれてくることすらどこか嬉しくて、安心した。
変わらないからはっきりと思い出すその人の話し方や、表情。
この人は、知っている人だ。しばらく会っていなかっただけで、私がよく知っていた人なんだとわかる。
会話すれば改めて理解する、私と同じ思い出を持っているということ。
そして、あたり前のように、心配や思いやりが掛けられること。赤の他人が言うのとは全く違う響きを持ったそれを。
その人とはずっと会っていなかったのに、
同じ記憶を持ちながら、
顔を合わせて存在を目のあたりにすれば、どうしていたかな、元気にしているかな、と感じる人が、
同じ国のどこかで、これまでずっと生きていたんだ。きっとこれからも。
自分が孤独じゃない感覚が、孤独じゃなかったという感覚が、衝撃的でだけど強い実感として生まれた。
なんだか怖くないかもしれない、そんなふうにその実感が安心をつれてきた。
外見も話すことも変わっていた、だけど、外見も話すことも変わらないことがあった。
再会は、嬉しいものなんだと驚きを持って知ったのだった。
以前、自分の期待や理想を押し付けて、思い通りのあなたでいてくれなくちゃ嫌だと、わがまま何様ムーブかました自分のこと理解できた。大好きだった存在を失った、と悲嘆した自分にいってやりたい。
「元気にしているなら、それでいいじゃん」と。