自分の本音がわかるようになった。

それはまた別の形で言語化したい。

 

そして、自分の本音がわかるようになった日から、久しぶりに心屋さんの前者後者の話を改めて聞いてみて、アプリとOSに例える方法をゲットできた。これがとても面白い。

自分の年齢別に、どれが本音だったか、どれが持たされた価値観=前者アプリだったかが、はっきりと区別できるようになった。

すごいことじゃーん。

アイデンティティというものに悩んでいた。自分とは?ってなんなのか、ずっとわからなかった。言われたこと、求められる人物像、憧れを感じた誰か、それらだけで自分というものを形作っていて、そのことを自覚しては「やっぱり自分てものがない」と虚無感。それは別に、本当の私というわけではないから。

心の奥に問いかけるようなイメージをしても、したところで答えはなかった。空っぽなのかと、焦った。優しく「大丈夫?どうしたの?」って語りかけても、手応えも何もなかった。

その理由について、本当の自分は、拗ねてるから答えないんだと思ってた。

けど、勘違い。別にそんなこともなかった。いじけてもいなかった。ただ自分をダメなんだと責めていた。「出てくるな」って、私に言われて、しょんぼり悲しんでいた。

 

どうして本音がわからなかったかが、今はわかる。よそからやってきた全てが、全部自分の持ち物だと、思い込んでいた。よそからやってきたそれらが正しさで、よく生きることで、徳であって、ってそう思っていた。言われた全ても、学んだ全ても、感銘を受けた全ても、私が持つべきもので、請け負うべきもので、私の持ち物だと、私がやるべきことだと、使命なんだと、勘違いしていた。

本当は全部、無関係だった。私のじゃなかった。私じゃなかった。無視してよかった。知らん顔してよかった。「いやだよ、やらない。もう話したくないからバイバイ」そう言えたら、本当は良かったんだ。

自分の種が遺伝子の情報のまま花になったら何色だったか、わからないで生きてきたってことだった。他所(よそ)からきた全ての色を自分に覆い被せていた。どれが他所のだったかわかって、他所からきたものとの境目がわかったから、自分だけの輪郭もわかるようになった。自分の種にあった色を理解するには生まれた最初の時まで遡る必要がある。生まれた時、私は「ぽやんとした赤ちゃん」だった。

 

特にこだわりたいこともなかった。

世界の在りように抵抗感もなかった。

ただお世話してもらえるとなんだか嬉しくて、周りに人がいることも嬉しかった。

お母さんには「お姉ちゃんと正反対の手が掛からない子」と言われた。

一人で遊ぶのが好きだった。絵を描くのが好きだった。裏道とか隠れたひっそりとした空間にワクワクした。あの頃、憎かったものは数少ない。数少ないそれは緑の菜っ葉系のおひたしだ。あれだけは、困る存在だった。渋々口に入れたら、噛みたくない。仕方なく、噛まずにそのままにしておいたらいつの間にか寝ていたことが何度もあったらしい。

その時の生まれたての私は、少しずつ影響を受けていく。

行動する前に、よくよく考えないとダメらしい。自分がその日の予定の何かのために、どう行動するかを考えないといけないらしい。それが最初の「持たされた他所からの被せ物」だった。考えないで、その場その場の心のままに行動していた自由な自分に「出てきちゃダメ」と言わなきゃいけない。そう考えた。

…叶うなら「考えるな、好きにやっていい」「私はそういう生き物じゃないから、考えるのは無理。と言っていい」と言い直したい。

これはたとえば直したほうが後々自分のためになるんだから直すべき、とかそういう話ではない。その課題は私のものじゃないから。持たされた課題だから。克服したいと私が思った時にやっと私の持ち物になるんであって。当時のそれは、他所から持たされたものでしかなかったんだから。

 

こうやって、少しずつ後者OS所持者(ぼーっとしてたり、集中力が長持ちしなかったり、マルチタスクに向かないタイプ)の自分が、前者アプリ(世間的に正しいとか目指すべきと考えられがちな価値観の生き方や行動指針)を持たされて、それが増えて、だけどOSと合ってないからうまく稼働しなくて、「私だけおかしいのかな」と感じながら生きてきたということ。

前者は、努力できる人が多いと感じる。お姉ちゃんもお父さんも、目的のために計画を立ててから、努力を実行する。つまり努力のやり方を知っているんだと思う。そして、行動が早い。効率もいい。大体なんでも上手にできるようになってしまう。すごいと思って、自分と比較する視点も新たに加わって、劣等感を感じた。「比較」という物差し、世の中から撲滅したらいいのに。その価値観を指針にすれば、苦しさは際限なく増していく。

 

でも、私は前者にはなれない。元が、種が後者OSだから。

後者度合いとしては、純粋に原色級の後者ではないと思う。私には、「ボケておけばうまく切り抜けるかも。ここはあえてボケておこう」と“わざと”ボケを使おうとする小賢しさがある。まっさらな純粋な後者は、曇りなきそのまなこでもっとド直球でボケるだろう。

ずるい事は許すまじっていう正義感もない。

でも、いくら前者アプリを稼働させたって、せいぜい前者のやる色々な仕事量とスピードの40%がこなせたらいい方で、実際同じようには決してできない。

 

今こそ、考えを変える時。

後者として後者アプリを召喚するのだ。なんせ元々が「ポヤン星人」なのだから、インストールするも何も、昔アンインストールしたそれを、再び呼び起こせば良いのだ。

元々の私の性質を呼び起こす。

これを考えた時、いかにずっと「自分らしくないこと」をやってきたかが見えてきた。

*生前からの自分アプリ

美味しいもの食べたい。太るとかどうでもいい。眠ったり夢を見たりがたっぷりやりたい。誰かと仲良く話したり遊びたい。面白くて笑うのが楽しい。穏やかな気持ちでニコニコして過ごすのが幸せ。優しく接してもらうのが嬉しい。じっとしていたい。ワクワク、ドキドキ、シクシクして感動したい。ありがとうって言われると嬉しい。

 

*生後自分が育てたアプリ

健康でいたい。美味しいものが私には必要。楽しいと感じる時間を大切に確保する。自分を知って尊重して大切にしたい。ありがとうって思ったらそれを伝えたい。勇気づけはいいものだと信じてるから勇気づけを心がけたい。もう他所と自分という存在を比較して考えたくない。社会の中で生きる力、働く力をのんびり育てたい。小説、漫画、アニメとか物語に浸る楽しい時間をすごしたい。音楽を楽しみたい。絵や文章、音楽、声、に形にして表現したい。好きだと思ったものを、大切にしたい、応援したい、労わりたい、その重みをわかっていたい。人の話を聞くことで人と繋がりたい。嫌なことを断り、やりたいことを進展させたい。

 

大きな変化を感じることの一つ。

「やりたいことができない」なんて、どうしてそんなこと言っていたんだろう? と今となっては不思議にすらなっている自分。

数ヶ月前までのあの頃は、ずっとずっとそればっかり考えて悩んでいたのに。

やりたいことができないんじゃなくて、「本当に今やりたいのはそれじゃない」ということに気づいていなかった。

そして、その時の私には目的があった。

それは、「何がなんでも達成しなきゃ、大成しなきゃ、成果として結果を出さなきゃいけない」だったり、「その日1日を後悔のない、満足感を自分に与える日としたい」だったりした。決して「その行動がやりたい」ではなかった。

行動の原理に据えるべきものじゃなかった。だってそれは前者アプリだもの。

 

「仕事自体は嫌じゃないけど職場でみんなに役立たずって思われてる気がして不安で行きたくない」

ーーー役立たずって言われたことはない。態度が冷たかったのを、私が勝手にそう解釈して自分を納得させようとしただけ。機嫌が悪いのはその人の課題。私は関係ない。ニコニコして、ポヤン星人らしくポヤって生きていこう。ポヤっていいんだよ。それが私の仕事。何か言われても、その時こそ今度こそ、子供の頃の二の舞になるもんか、だ。「あなたはそうでも、私はそうじゃない。そうすべきだと思わない」 そして和解できないなら、さようならだ。

 

自分らしくないことをやると、モヤモヤする。自分に嘘をついていることは感覚としてちゃんとわかる。身が削れていく感じ。そりゃ、枯渇するし何かで補おうと踠(もが)きまくるよな…。うん。納得がいく。

 

ここは、やっぱり「他所の世界」という感じだ。いつか、「私の世界」って思えたら、もっと生きやすいと感じられるのかもしれないけど。私にはポヤン星という別の母星があるような。そんなイメージ。

だからこそ、噛み合わないことを悲観する必要はないのかもしれない。

 

自分の気持ち、明らかになるのがとても嬉しい。

ここに、ちゃんと居てくれて、よかった。

今度こそ見つけてくれて、ありがとうね。私。