お釈迦様が死の床にあったとき、嘆き悲しむ弟子に、お釈迦様は、なぜ泣くのか・・・と叱り、

「私の死を悲しむということは、私の肉体の存在に寄りかかっているということだ。それではいけない。私の教えや真理を、闇を歩むときの灯りとして用いなさい。
真理を支えとして生きていきなさい。」と言われました。

その後、お釈迦様の肉体は無とかしましたが、存在は死んではいないのです。

その存在がはっきり、語り継がれています。

キリストは死んでしまったのか。いいえ、やはり死んではいません。

聖徳太子は、ソクラテスは、エジソンは、織田信長は、ケネディは、死んでしまったのか・・・あるいは老人は、というふうに考えていったとき、その存在を忘れ去られていない人は、まだ存在していると言うことができます。

人は肉体の死を避けることができません。

しかし、存在の死を延ばすことはできます。

そのためには、この現世に肉体という物質を持ち生きているときに、いかに多くの人々に喜ばれる存在であったかが、重要になるのではないでしょうか。










黎明