こんにちは、
日本で一番ホーセンブースの商品が揃っているK-PROJECT通販サイトの店長です。
今回は、「ホーセンブースの軌跡その2」と題して、前回の続きで、ホーセンブースが発展していく様を
記しているロサンゼルスタイムスの記事を紹介します。
それでは早速始めましょう。
ロサンゼルスタイムスの「ホーセンブースの軌跡」
ホーセンブースの創設者であり、チーフディレクターでもあるロバート・キースは、サクラメントで生まれ、
芸術と音楽の教師であった父親のロバートと、精神障害者を支援する非営利団体を運営していた
母親のサンドラによってローズビルの近くで育てられました。
キースは大学に通ったことはなく、ジュエリー制作の正式なトレーニングや見習いも受けていません。
キースは、約10年前に、ファッションフォトグラファーとして自立する前に、別のファッションフォトグラファー
を手伝いながら、不用品交換会やヤードセールなどで小道具のアイテムを集めていました。
そこで彼が最も魅了されたのが宝石だったのです。
「他のどのアイテムよりもジュエリーはスゴイと思いました」とキースは言っています。
そのときに、彼は高級ジュエリーについて独学で学び始めたのです。
43歳のキース氏は言います。「私たちが望まない限り、多くのことを学ぶことはできません。
そして、私は本当にジュエリーのことを学びたいと思いました。
喜んで心を開く人に対しては、教育というのは実は簡単なことなのです。」
キースが作った2番目のリングは、サンタモニカのメルセデスベンツディーラーでセールスマン
として働いていた、元俳優でファッションモデルだった古いサーフィンの仲間、パーカーが手にしました。
パーカーのセールスマンとしての仕事は長く続きませんでした。
パーカーは、メルセデスの見込み客の多くが、彼の指輪について尋ねていることに気付いたのです。
その後、パーカーはすぐにキースが作った指輪の写真を販売店に持ってきたのでした。
「このようにして、私たちは実際にかなり売り始めました」とパーカー(40歳)は言っています。
「そして、このことは、自分が今までやってきたことよりも納得のいくものでした。」
全くの適任でした。 2007年にホーセンブースに入社したパーカーは、販売とマーケティングを担当する
ブランドの「アンバサダー」になりました。
これにより、キースはデザインに専念できるようになったのです。
ロバート・キース(左側)とアーサー・パーカー(右側)
ビデオや写真の撮影やレストラン、コーヒーショップで頻繁に新しいクライアントと出会っていたキースは、
「噂は急速に広まった」と感じました。
彼は冗談めかして当時のことを「路地の麻薬の売人のような気分」だったと言っています。
私が、「これらは私の作品です。」と言いますと、彼らは「ああ、これ、欲しい。 持たなきゃ」というでしょう。
私は、リングサイズの測定器とメモ帳を持っていて、「OK、あなたの電話番号は何ですか?」と聞きます。
そのように事が進んでいきました。
キースとパーカーのファッション業界とのコネクションと友人たちが、彼らが大きく飛躍する際のカギでした。
2人は2007年9月にニューヨークに招待されました。そして、ファッション業界の友人たちは、
ジュエリーについて質問したい人は誰でもホテルに送ることを約束したのです。
友人たちが送ってきた人たちの中に、バーニーズニューヨークのバイヤーが1人いました。
そのバイヤーが、ホーセンブスの全ラインを買いたいと言ってきたのです。
それはめまいがするような皮肉で満たされた瞬間でした。
キースとパーカーはニューヨーク州バーニーズから300,000ドルの注文を獲得しました。
しかし、二人のクレジットカードの合計限度額がマンハッタンの高価なホテルであるマーサーでの滞在を
カバーするのに十分であるかどうかさえ確信がなかったのです。
バーニーズシニアファッションディレクターの小倉知子氏は次のように語っています。
「ホーセンブースのジュエリーには、すべての年齢層の女性にアピールするクラシカルで美しい
ものがありますが、はっきりとしたエッジもあります。
ホーセンブースのアンカーの背後にある遺産に加えて、
このバランスがコレクションを特別でユニークなものにしているのです。」
続く