『金魚楼』
「……帰らはるん?」
東の空が無慈悲に白み始める夜明け前、薄闇の中に響いたしゅるりと締め直される帯の擦れ音に、ゆるりと上体を起こす。
地上から切り離されたる、底の見えない深い孤独色に覆われていた夜の海に、名残惜しげに夢の欠片がちらつき……。
「…なんだい、またそんな顔をして」
逞しく成長した若き獅子は肩越しにこちらを振り返り、微かにその瞳を細めた。
「そんな顔……?」
「ああ、夢陽炎のような終夜(よもすがら)の逢瀬を終えて、朝焼けに霞む愛しき旦那の背を見送る遊女のような顔」
「……………」
慶喜はくすり…と聴こえぬ吐息を衣擦れの音でかき消し、端正な横顔を前へと向ける。
その瞳には他を寄せ付けぬ揺るがない決意の光が宿っていて。
「だけど遊女の恐ろしい所はさ、それが"擬似愛"だ、って事だよね」
手際よく整えられてゆく見慣れたその背中。
「擬似愛……」
「だってそうだろう? 美しい金魚は妖艶に背を振り尾を振り、泡(あぶく)を吐くようにして泡沫の愛を囁く」
姿勢のいい背筋をいくらか屈めて、しなやかで長い指先が無造作に落とされている襟巻きをゆっくりすくい上げた。
「………………」
じわりじわりと近づく"その時"が、俺の中の紺色の闇をより深いものへと蝕んでゆく。
「…男の方だってそう。そこに本当の愛なんて存在しないのさ。陽のあたる場所では見ることの許されない、甘美な夢まぼろし」
それはーー。
俺たちの事を示しているのだろうか?
陽の注ぐ場所で隣りを歩き、
盾となり刀となりて共に戦う事も出来ない、
狭いガラス鉢に閉じ込められた不自由な金魚。
唯一許されたるは、この月詠の世界のみ。
そんな遊女のように、陽のあたる場所へと戻ってゆく背をただ見送る事しか出来ない我が身。
いや、俺だけじゃない。
慶喜だって、徳川という分厚いガラス鉢で飼われた金魚にしかすぎないんだ……。
「……そう、どすな」
離れたくないと訴える視線を、長い襟巻きを巻き終えた背から無理やり引き剥がす。
落とした先にある、閉じ込めた想いを硬く握りし自身の両拳。
「ああ、ほら、またそんなにきつく握って。爪の跡がついてしまうだろう?」
するすると滑るように畳を擦りながら近づいて来た慶喜が、俺の隣りへと流れる所作で腰を下ろした。
刹那にふわり甘やかに漂う、混じり合ったふたつの香の夢夢想。
……夢の終わり……か。
「そんな顔をしないでおくれ」
いつしか想いのままに伸ばす事を諦めてしまった拳を、あやすように解しながら慶喜の柔髪がとさりと俺の肩へと乗せ置かれる。
「……ねえ、言ってよ」
爪痕が食い込んだ手のひらに自分の手を重ね、一本一本の指を糸を編むように絡めてくる美しき弟。
「"行かないで"って、"寂しい"って」
「………………」
「……それさえも、俺たちには許されないのかな?」
俺への問いなのか、はたまた己への問いかけなのか……。
「あんさんは…、寂しいんどすか?」
不意に出た愚かな自問。
そんな俺の心の声に、慶喜は凭れ掛けていた形の良い頭を持ち上げ、せっかく巻いた襟巻きをくいり…と優美な人差し指で緩め開いた。
「…………っ」
そこには……。
「俺にはコレがあるから平気」
毛色のいい春駒のような滑らかな首筋、程良く締まった身体へと続く流美な喉元。
そこに散りばめられたように咲く、赤く密やかな蕾花。
俺の落とした、小さな痕跡ーー。
「……そんなもん、すぐ消えてまうやろ」
慶喜はふふっ、と擽ったそうに笑みを零し、鼻先を俺へと近づける。
「…じゃあ、消えないくらい、もっと強く吸って?」
「……………んっ」
引き寄せられるように重ねられた愛しき温もりが、乞うるようにぬるりと舌を絡めとる。
「……秋斉、帯、解いて」
「…帰るん…ちゃいますの」
「だって俺、まだ秋斉に残してないもの」
「残して……?」
「うん、俺が確かにここに居たっていう証」
「………………」
「夜明けまで、まだ時間はあるだろう?」
吸いつき合いたいと求む肌と肌が熱を帯び始め、誘われるようにして帯へと手が伸びた。
「秋斉が寂しくないように、俺のことを忘れないように、俺を刻みつけてあげる」
「………慶喜」
明けないで…と懇願する島原の宵闇に、ぱさり…と静やかに羽衣が落ちる。
ーーいつか、
俺たちはこの息苦しい金魚鉢を出て、広い河へと還れるだろうか?
自由に泳げる世界へと、手を繋いで……。
『…………いってらっしゃい』
完