SIAM SHADEメジャーデビュー30周年という今年、gooブログがサービス終了。
データ移動をするにあたりログの整理をしていたところ、ライブレポらしきものを始め、シャム関連の話題がたくさん出てきました。これも何かの縁かと思って、SIAM SHADEに触れた30年を振り返ってみようかなと。
あくまでも私個人の見解と記憶なので、解釈違いや記憶違い、誤認もたくさんあると思います。Wikipediaやデータベースページ,ファンページの方が詳しいことに間違いはないので、こんな風に感じていた、そして感じている人もいるんだ、程度の生温い目で見ていただければなぁと。当時の浮かれ具合や妄想は、このブログ内のあちこちに散らばっていますが(まだ全部移動してないけど)、それとはまた別に、冷静に?真面目に?当時の思い出~現在の心境を淡々とつづった、ただそれだけの長い自分語りです。
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(文中敬称略/理由:打つのが大変)
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SIAM SHADEを知ったのは、メジャーデビュー曲「RAIN」のPVを、あれはライブトマトかHOT WAVEだったか、で見たときだった。なんてかっこいい曲なんだろうって、もう目が離せなかった。この時は完全に曲に興味を持っていかれていて、メンバーは目に入っていなかった。大きい人たちくらいの認識。しばらくの間「ヴォーカル,ベース,右のギター,左のギター,ドラム」という呼び名で知人とも話していた。名前なんて知る由もない。そのうちメンバーの名前も覚えて、でも最後まで一馬となっちんの区別がつかなかった。
アルバム「SIAM SHADE Ⅱ」を購入。
「RAIN」のつもりで聴き始めたのに、一曲目は「DREAMLESS WORLD」。「TIME'S」「CALLING」「SADNESS」と続く・・・声がキレイ。メロディにのった、この澄んだ高音が心地よい。そして気付く、一馬の声に。栄喜と一馬と、ここまでシンクロするのかと驚く。外れ曲が一曲もないこのアルバムに、完全にノックアウトされた。
SIAM SHADEを調べていくうちに、インディーズでもアルバムを出していることを知る。探してやっと見つけたアルバム「SIAM SHADE」。ますますSIAM SHADEが好きになる。
この時は、まだ「LIVEに行く」という頭は全然なく、ただひたすらに「SIAM SHADE」と「SIAM SHADE Ⅱ」を聞いていた。
学生時代はイカ天などバンドブームであったけど、音楽は、流行り曲が気に入ったらたまにCDを買って聞くような、そんな一般の人だったから、「LIVE」という概念がそもそもなかった。
先の音楽番組を見ていたのは、この頃、勤めていた仕事の影響だった。
音楽のことなんて何にも知らない,楽器なんてもちろん弾けない,歌も苦手、そんな自分が音楽関係の会社に勤めることになった。しかもどっちかというとヴィジュアル強め。
職場には「LUNA SEA」「黒夢」「ROUAGE」の弦楽器隊のポスターが貼ってあり「この人たちは…?」という状態。今まで触れたことのない世界だったから、とにかく新鮮だった。色々知りたいと思い、音楽番組を意識して見るようになった。
まわりには、とにかく音楽の人しかいない。自身のライブや知り合いのライブに連れて行ってくれたり招待してくれたりして、本当に楽しかったことをよく覚えている。
ここで、機械音ではない生の音を聞くことが出来る「LIVE」というものを知る。
そんな日々の中、アルバム「SIAM SHADE Ⅲ」が発売された。即買い即視聴。
「このサウンドは、もはや犯罪だ。」
私は「SIAM SHADE Ⅲ」が、SIAM SHADE史上最高傑作アルバムだと今でも思っている。この「SIAM SHADE Ⅲ」を聴いてSIAM SHADEのライブに行きたい、生で聴いてみたいと強く思うようになった。
1997年3月1日 渋谷公会堂
衝撃だった。音源そのままの音が全身に迫ってくる。ステージは遠く、メンバーの姿はほとんど見えない。それでも夢中でステージを見て、夢中で音を追っていた。音源だけの存在だったものが、生きてここにいる。これを期に、SIAM SHADEがもっともっと好きになった。お茶目な一面があることも、この時に知る。
この頃、シングルが間を置かず次々と発売され、露出が増えてきていた。
そして、「1/3の純情な感情」がるろうに剣心のエンディング曲となった。
この話を聞いた時は、本当に嬉しかった。
当時、るろうに剣心のエンディング曲に採用されたバンドは、ことごとく人気が出ていたから、SIAM SHADEの知名度もきっと上がると、当時のシャム友と「すごいよね、良かったよね。」ってずっと言っていた。末端のファンであった自分ですらそうであったのだから、インディーズから応援していたファンの喜びは計り知れなかったことと思う。
「1/3の純情な感情」は大ヒット。SIAM SHADEの代表曲となった。
「1/3~」が収録されたアルバム「SIAM SHADE Ⅳ ZERO」発売。
ZEROのサブタイトルがついている通り、先の3枚のアルバムとは方向が違うものとなっていた。より幅が広くなったと思った。なっちんと淳士の曲がアルバムに入ったのもこの時が初。当時の雑誌などの記憶をまとめると「新しいことをするために試行錯誤して作ったアルバム。初めてメンバー全員が曲を提供した。」になるかと思う。
無印~Ⅲまでをヘビーローテーションしていた自分としては、その違いに驚き、少しまとまりがなく雑多になった、とざっくりとした印象を持った。聞き込んでいくうちにその感覚は薄れていったが、後から思うと、この第一印象は間違っていなかったのでないかと思う。
「グレイシャルLOVE」「Dreams」とシングルが続けて発売。どちらも聴きやすいポップチューン。キャッチーな曲も好きな自分は、特に「グレイシャル~」をよく聞いた。足りないロック成分はカップリング曲で補強。SIAM SHADEは今後、この路線で行くのかと憂慮した時期だった。
その憂慮を飛ばしたシングルが「NEVER END」。久しぶりに出たロックタイトル。すごくキレイにまとまった優等生な曲だと思った。「1/3~」から入った人も聴きやすく、受け入れてもらいやすい曲。そして自分のようなファンも満足できるような、そんなところを考えて出したタイトルなのか、と当時は考えたものだった。
先の3曲が収録されたアルバム「SIAM SHADE Ⅴ」発売。
Ⅳに続き、より音にアクや雑味が無くなったように感じた。楽曲はある意味平均的な、どのジャンルが好きな人にも対応出来るような卒のない選曲。全体的に透明感がある。ピアノ曲の「Tears I Cried」を聴いたときは、「SIAM SHADE Ⅲ」から随分遠くへ来たと思った。同時に、もうあの熱気に触れることはないのかも、と少しさみしくなったりもした。
ここからしばらくアルバムはリリースされず、シングルが続く。
シングル「曇りのち晴れ」発売。
ドラマ「鬼の棲家」のタイアップ曲。ドラマタイアップは2回目となる。1回目の「RISK」は深夜ドラマであったが、今回はゴールデンタイムのドラマ。主役は当時売れっ子のふかきょん。シャム友と「栄喜はふかきょんのファンだって言ってなかったっけ、現場に行ったり会ったりしたのかな。」と余計なお世話な話で盛り上がった。ドラマから流れる曲を聴いたときは、なんだかくすぐったかった。
その後、「BLACK」「1999」「せつなさよりも遠くへ」とシングルリリースが続く。
「曇りのち晴れ」から、ポップな曲と重めな曲の繰り返しのリリースに戻っていた。カップリングの傾向は変わらず、A/軽め⇔B/重め,A/重め⇔B/軽め、という具合。バラエティーに富んでいて面白さはあったが、どこに主軸があるのか、何を売りにしたいのか、特に「曇りのち晴れ」から分かりにくさを感じていたのも事実。
2000年も半ばを過ぎた頃、ようやく「SIAM SHADE Ⅵ」が発売。インターネット企画もあり楽曲以外でも楽しませてくれた。しかし、これが事実上の最終アルバムとなる。
ここまでシングルを定期的にリリースしていたため、そこまでの飢餓感はなかったものの、2枚組アルバムということで私の期待は高くなっていた。先のシングル4枚からカップリング含めた楽曲が収録されていたため、新譜は全収録曲の半分強くらい。それでも、通常アルバムの曲数に比べたら多くはあるが、その点は少し残念だった。曲数はともかく、各楽曲はもちろん良く、どの曲も聞き込んだ。
だけど、このアルバムもごった煮だと思った。全体像でみると統一感があまりない。「各々の好き」が強く出たが上のバラバラ感と言ったらいいのか?
ところで「Fine weather day」はなっちんの結婚祝いで栄喜が作った曲、という話を聞いたことがある。その話は本当なのだろうか。今でもお気に入り上位に入るタイトル。
RAINから始まり1/3~を経てのシングル,アルバム無印~Ⅵ,この多岐にわたる楽曲の広がり、これがSIAM SHADEの魅力のひとつであり個性でもあったことに間違いはない。でも、アルバムⅣ~Ⅵからは、表裏の裏,清濁の濁を、そこはかとなく感じていたのだった。
SIAM SHADEの楽曲はどれも好きで外し曲はない。今でも聞き続けている。スピーカーで聴くも良し、ヘッドフォンで聴くも良し。その中で一番映えるのは、やっぱりライブだと思っている。
渋谷公会堂の衝撃からのち、出来る範囲でライブに参戦した。
逆襲のシャム
SPECIAL STANDING LIVE
TOUR '97 NO, way-out
B-PASS 創刊12周年ライブ ドキドキ・ブレイク宣言! '98
TOUR 1998 ZERO-ISM
METAL SEX
TOUR 1999 MONKEY SCIENCE
TOUR 1999 SUMMER FIGHT SERIES METAL SEX AGAIN
WINTER FIGHT SERIES COUNT UP 2000
TOUR 2000 KICK UP THE DUST
TOUR 2000 KICK UP THE DUST II
TOUR JUMPING FIGHT SERIES 2001
FAN CLUB限定ライブ EXCITING MONKEYS NIGHT
SIAM SHADE LIVE in 武道館 前夜祭
SIAM SHADE LIVE in 武道館 〜LEGEND OF SANCTUARY〜
SIAM SHADE LIVE in 武道館 START & STAND UP
ツアータイトルは、wikiより拝借。
こうして見ると思っていたより少ない。どのツアーも1公演か2公演に参戦であったから、総数20回程度といったところ。
「逆襲のシャム」が1997年。そういえば、確か「不死身のJUNJI奇跡の生還 バッファローアタック '95 秋」のポスターが、職場に掲示されていた。この時から行っていれば良かった。このツアーは、淳士のバイク事故後に開催されたものと思われる。この時の事故で、どちらかの目の視界が狭くなった、と言っていたような遠い記憶がある。
ネットを始める前の、1999年以前に参戦したライブの記録はブログに残っていないから、残していないと思われるライブなど、記憶の断片にあるものをいくつか書き出しておこう。
新宿リキッドルーム その1('97年)
移転する前のリキッドルームでのライブ。始まった瞬間、皆のジャンプで床が上下に波を打って揺れ、凄いことになっていた(フロアは6Fか7Fだった)。その揺れは収まることがなくライブは終了。踏み台を持ってきている人もいた。気合の入れ方が違うと感心したものの、安全面ではどうかとも思った。
新宿リキッドルーム その2('97年)
後方バーカウンター付近で見た。後ろだし、と、何曲か小さく声に出して一緒に歌った。動く人影が視界に入り、なんとなく見たら真矢さんらしき人がいた。聞こえていたと思う。恥ずかしかった。
有明レインボーステージ('97年)
イベントライブ。確かトリ前がcascadeで大トリがSIAM SHADE。ライブ本編はあまり覚えていないが、曲数が少なかったことは覚えている。
有明レインボーステージ('98年)
席はブロック分けスタンディングであったため、かなり早い時間帯から場所取りをしていたと思わる人たちの日焼けが痛々しかった。野外ということもあってか、音は分散気味だった。
野音('98年)
メジャーエピソードではあるが、東海林のり子さんがいた。中央後方あたりだったと思う。時は4月で桜は満開。花粉の季節でもあったため、友人は耳がかゆいかも、と言っていた。「if~ひとりごと~」が一番印象に残っている。リハの音漏れで少々ネタバレをくらった。
私は優良なファンではなかったからファンクラブには入っておらず、ライブ情報は、ライブ会場でのフライヤーかイベンターの会報,または音楽雑誌から得ていた。行けるところをチェックして、振り込みをしたり電話をかけたり。とにかく、ぴあ電は大変だった。特電になっていても繋がらない。
1/3~のヒットにより、当然のことながら、ライブチケットはますます確保しにくくなった。それでも、イベンターの会員になっていた私は、そこでどうにかチケットを確保していた。ぴあなどの一般チケット販売枠のほかに、イベンター枠というものがあり、それでどうにか凌いでいたのだった。
このイベンター枠というのは侮れず、時にとてつもない当たりを引き寄せることがある。それが、
2000年1月1日 横浜アリーナ
でのライブだった。
後にも先にも、SIAM SHADEをこの距離で見たことは一度もない。ZEPPもそこそこ近かったが、ホールでのアリーナAブロックに優るものはない。
この時は当たりであったが、イベンター優先とぴあだけでチケットを確保することが難しくなってきたこと,ファンクラブ限定ライブにも行きたくなり、このライブの後しばらくしてようやくファンクラブに入会した。この時に入会して良かったと、後に思うことになる。
SIAM SHADEは、基本的には箱推しで、特に初期はメンバー個人への思い入れはさほどなかった。そうはいっても、ライブに足を運び、日々音源を聞いていたら少なからず興味は湧いてくる。トークイベントに行き、ファンレターも送った。ファンレターについては、「手紙を出せば必ず返事がくる」という話を聞いたからだった。特定の誰かに思いを伝えたい、ということはなく、単純にどんな返事がくるのかという興味からだった。まずは一馬に出した。すぐに一言付きサインが返送されてきた。次にDAITAに出した。これも同じように返事がきた。次はなっちん,淳士,最後に栄喜に、と思っていたが、願いは叶わなかった。
ファンレターの返事によるサインのコンプリートは出来なかったものの、トークイベント('97年新宿タイムズスクエア)でメンバー全員のサインが入った色紙を貰ったらしい。「らしい」というのは、その時貰ったものか覚えていないから。しかもサイン色紙は何故か2枚手元にあった。さすがに2回貰ったなら覚えていてもおかしくないはずなのに、本当に覚えていない。トークイベント自体は、かすかに覚えており、メンバー全員参加ではなかったような気もする。全員参加ではないのに全員分のサインはおかしいから、色紙はCD購入特典だったのか?未だに解決出来ない謎。手元にあったうちの1枚は、後にシャム友となる友人にプレゼントした。
音源を聴いてライブに行き、テレビでメンバーの声を聞き、ファンクラブに入会して個性あふれる会報を読み、栄喜の日記を読んで・・・楽曲だけでなく、メンバーへの情も深くなっていった2002年、解散の報を知ることとなる。
不思議とそこまで落胆はしなかった。
アルバムからもそんな雰囲気を感じていたし、少し前のライブからそんな予感もあった。
2000年11月、「SIAM SHADE Ⅵ」のあと少し空いて発売されたのがミニアルバム「SIAM SHADE Ⅶ」。
既存曲を英詞に直した曲と、元々英詞だった曲を、(おそらく)ヴォーカルのみ撮り直したタイトルが収録されている。日本語だったものが、英詞になったのは新鮮ではあったものの、新譜を期待していた身としては物足りない一枚となった。そして、もっとも気がかりで疑問だったのは、栄喜しかこのアルバムに参加していないのではないか?ということだった。
年が明けて2001年4月にマキシシングル「Life」が発売。
表題曲は壮大なバラード曲でありメッセージ性の強い「Life」。収録曲は他に「BLUE FANG」「時代だとか(以下略)」「JUMPING JUNKIE」の3曲。「Life」は名曲であることに間違いはないが、表題曲は「JUMPING JUNKIE」が良かったのはないかと思ったりもした。前の年には、日本文化の交流制限が解けたばかりの韓国でのライブがあった。アジアへの進出も考えているのだろうと思っていたところに、「Life」だったから。Ⅳ~Ⅵでそこはかとなく感じていた違和感が、さらに大きくなった一枚でもあった。
2001年09月 シングル「アドレナリン」発売。
2001年11月 シングル「LOVE」発売。
12月には念願の日本武道館公演を控えていたが、ついにアルバムは発売されなかった。
2001年12月28日 日本武道館
現在の日本武道館の立ち位置はどうなのだろう。
当時の多くのアーティストにとって、日本武道館は憧れの聖地であり一番高い目標であったことに間違いはないと思う。もれなくSIAM SHADEもそうであった。目標は武道館であることを常々公言していたし、様々なメディアでも語っていたと記憶している。栄喜は日本武道館に立つ夢を見て、なっちんをバンドへ勧誘した。
「夢の続きへようこそ!」
メンバーだけでなく、ファンの皆が見た、夢の続きの舞台だった。
これからもっと夢を見させてくれる、そう思った日だった。
2002年1月初旬 解散告知
2002年1月30日 「SIAM SHADE Ⅷ B-side Collection」
2002年3月06日 「SIAM SHADE Ⅸ A-side Collection」
SIAM SHADEの歩みを総括するようなアルバムが次々に発売される。
日本武道館という夢があったから、ひとつになれていたのだと思う。本気であればあるほど、時にぶつかることもある。ひとりひとりの本気は、全員同じベクトルを向いているわけでない。目指す先は同じであっても、目指す先までどの道程を選ぶかは、皆同じではないということ。先のアルバムに感じたもの、そしてLIVEで感じていた違和感は、一緒に歩み続けるために葛藤した跡だったのだろうと、きっとそういうことだったんだろうと、今になって思う。
RAINを聞いたあの日、渋谷公会堂での衝撃。
それからそれから…。
夢が叶ったそのあとの、彼らの夢の続きをずっと一緒に見たかった。
2002年3月10日
日本武道館史上最多動員数を記録した日となった。
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解散後、メンバーは各々音楽シーンで活動していくことになる。
一馬,淳士,そして栄喜は「未来(HIDEKI)」として、ライブを中心にソロ活動を開始。
DAITAは、イベントなどで露出はあったが、プロデューサーのようなことを始めたようだった。
ソロ活動を始めたのは、なっちんが一番遅かったと思う。
2002年8月23日の自分ブログより抜粋。
楽しいことが増えて私は嬉しい。
SIAM SHADEが解散したのは、サミシイことではあったけど、同時に楽しみが5倍に増えたということでもあったんだよ。
1/5に減るんじゃなくて、もちろんゼロになるんでもなくて、ラストライブの「START&STAND UP」の通り、一人一人のパワーをそれぞれに感じることが出来るんだから、きっとそれは5倍になるってこと。バンドとしてのパワーとはまた違うモノを感じることが出来るってことだと思うから、それぞれが見つけようとしている答えを、それぞれが掴もうとしている答えを、それぞれが出した答えを、私は見るのが楽しみで応援していきたい。もちろん「SIAM SHADE2」にも期待してるけどね(笑)。
我ながら立ち直りが早いと言わざるを得ないことは否定しない。
でも単純に、メンバー全員が目に見える形で音楽活動をしてくれることがありがたかった。メンバーの誰かひとりでも音楽シーンから退場してしまっては、もういくら願っても望んでも「SIAM SHADE」は戻らない。
メンバーのファンクラブに入り、ライブに行って、音源を聞いて。
各メンバーの音楽を楽しんだ。たくさんの発見があった。バンド時代には見えなったメンバーの色々な顔を見ることが出来た。私は優良なファンではなかったから、ここへきて各人の魅力を知ることとなった。
栄喜ソロ,未来,ACID,DETROX,DAITAソロ,BINECKS,一馬ソロ,50/50,戦国時代,DAMIJAW,淳士ソロ,BULL ZEICHEN 88,Acid Black Cherry,NATCHINソロ,BIG BITES,21g
時系列、またはメンバーごとにまとめると収拾がつかなくなるし、全てを網羅しているわけではないから、ライブに行ったことがある,そして今でも足を運んでいるソロ,バンドだけ挙げた。SIAM SHADEが解散していなかったら出会えなかった音楽たち。まさに5倍になったのだった。
各メンバーが各々音楽活動をしていく中で、特に栄喜は楽曲を多数送り出していた。そして誰よりもライブが多かった。その中で、どうしても出てくる「SIAM SHADEの曲はやらないのか?」というファンの願望という名の欲望。特に栄喜はヴォーカルだったから、余計にその期待が集まっていたと思う。
「過去の曲をやること」に関してアンケートを取ったことがある。
答えはほぼ決まっていたように思うが、ファンに配慮して、ということでもあったのではないだろうか。シャム友のひとりは、5人が揃わないSIAM SHADEの楽曲を聞くことに抵抗がある、と言っていたからだ。
その時の自分の思いは、2006年2月16日の記事に残している。
2007年11月18日 日本武道館 HEART OF ROCK
SIAM SHADEのチーフマネージャーだった中村氏の追悼ライブ。
思いも寄らない形で、SIAM SHADEが一夜限りで復活することになった。名目が名目だけに、手放しで喜べないところもあった。だけど、一夜限りであるとはいえ、このライブを喜ばなかったファンはいなかったと思う。自分も、もちろんそのひとりだった。一報を聞いたその日は、なかなか眠れなかった。
待ち望んでいたライブ。昔からのファンのほか、解散してから知ったファンももちろんいる。解散前と比べものにならないほどチケット倍率は高くなり、敗者復活でどうにかチケットを確保した。チケットを手にするまでは生きた心地がしなかった。場所はステージ後方ではあったけれど、SIAM SHADEの音を久しぶりに体感した。後ろ姿ではあったが、変わらない5人の背中がそこにはあった。
届かない思いを、確かに受け取ったのだった。
2011年10月21日 SIAM SHADE SPIRITS
2011年3月11日、東日本大震災発生。
日本中に大きな混乱と不安が広がったこの年に、復興支援のライブが行われた。
今回の復活も手放しで喜べるものではなかったため、複雑な思いもあった。それでもやっぱり、復活は嬉しかった。SIAM SHADEのライブがあるというだけで、何より励みになったのは間違いない。この時期は、震災に関係なくきつい時期だったこともあり、本当に助けられた。
さいたまスーパーアリーナの前に仙台でのライブもあったが、こちらは参戦せず。東北復興のためのライブだから現地の人たちが出来る限り参加出来たら、という独善的な思いからだった。
2013年 LIVE TOUR HEART OF ROCK 7
2013年 東北魂
3回目の復活ライブは、故・中村氏の7回忌に寄せてのものだった。今までの復活ライブとは違い、ツアーを組んでのライブとなった。このツアーに合わせて、まさかの新譜「Still We Go」もリリース。「SIAM SHADE」としての新譜が聴ける日が来るとは思わなかった。PVも制作され、もしかしたら、このまま継続して活動を再開するのでは、とかすかに期待した自分もいた。
「Still We Go」にこんな詞がある。
傷口はまだ沁みるけど
この時だけは笑っていよう
これが最後で構わないから
明日のことは分からないけど
今俺達は一つのSIAM SHADE
「Still We Go」は前向きな曲であると同時に、残る棘の痛みを詞に託したものではないかとも思った。これで最後だから、この瞬間だけSIAM SHADEの5人でいて欲しいと。「今俺達は 一つのSIAM SHADE」は、ファンも含めてのことだとは思うが、私のファーストインプレッションはこれであった。
「SIAM SHADE Ⅲ」に「LET IT GO」という曲が収録されている。この詞にも「SIAM SHADE」という単語が出てくる。まだ道が分かれる前のあの頃を、私は思い出さずにはいられなかった。
SIAM SHADE 20th Anniversary year 2015-2016
2015年 The Abiding Belief
2016年 The Rain Let's Up
2016年 The Ultimate Fight Series
2016年 Final Road Last Sanctuary
メジャーデビュー20周年を記念してのツアー。
個人的には「Still We Go」が最後のメッセージと捉えていたから、この一報に驚いた。前回の時に「次は20周年で」と言っていたような気もするが、それはリップサービスで、もしまた復活があるとすれば、もっと先、25周年なのではないかと思っていた。
こんなに早くまたやってくれる、また会える。5人の音が聴ける。しかも今度は「20周年」の冠。何かの後押しがあったわけではない「みんなのために」。
しかし、そこで目にした「完結」の2文字。
この2年の時を経ても「ひとつのSIAM SHADE」には戻らなかった,戻れなかったのだと思った。これで本当に最後になると思った私は、万感の思いを込めて、大阪難波以外すべての会場に参戦した。
2016年10月20日 日本武道館
武道館の坂を下りていく途中、私の横を風が吹き抜けていった。
悔いは残らなかった。
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栄喜道が始まったのは、2016年か2017年あたりだったと思う。
栄喜が自身の歩みを振り返る、というコンセプトのライブであったため、当初は、SIAM SHADE,未来,ACID,栄喜、それぞれの名義で出した楽曲が総括的に入ったセットリストだった。DETROXの曲はどうだっただろう。「dark and light」か「
ride an angel」をやったかも知れない。ここは記憶がかなり曖昧。
この栄喜道でSIAM SHADEの曲を演奏した時、それはそれは盛り上がった。ヴォーカルが栄喜でベースがなっちん。盛り上がらないはずがない。いつかの年(2018年?)には、一馬がゲストで来てSIAM SHADE曲を披露したこともあった。未来名義時のライブなどでも、自身のSIAM SHADE曲はやっていたから、個人的にはそこまでの驚きはなかった。もちろん、驚かなかっただけで、がっつり盛り上がったのはいうまでもない。何回かのSIAM SHADE復活ライブを見てのファン、また初期のソロライブを知らないシャムファン、もちろん古のファンにとっても「栄喜が唄うSIAM SHADE」は、何ものにも代えがたい、価値のあるものだったと思う。
このファンの盛り上がりと声に応えようと、栄喜道は「SIAM SHADEセットリストオンリー」となり、現在に至ることになった。
2023年くらいからか?栄喜ソロ,栄喜道でDAITAの話や昔の話がよく出るようになった。それは決して嫌悪の言葉でなく、昔を懐かしむ、疎遠になった友を思い出す言葉で溢れていた。いくつかのフレーズは頭に残っているが、これは「私がそう感じた」印象を総括している。私は単純に、「最近DAITAくんの話よく出るなぁ。DAITAくん頑固そうだからなぁ。」という呑気な感想しか持っていなかった。
そして、2024年。
翌年にメジャーデビュー30周年を迎えようというこの年に、栄喜,KAZUMA,NATCHIN,淳士よりファンに向けたメッセージが発表された。この時になって初めて、DAITAの話題が多くなった本当の意味を知ることになる。
翌2025年。
DAITAくんからのメッセージが発表された。
複雑な思いだった。
これは「SIAM SHADE」をどのように捉えているか、また何が原点なのか、で受け止め方が変わってくると思う。
私には、かつて大好きなバンドがいた。
解散後、そのバンドのギターが、別バンドのギターとしてまたステージに立つことになった。そして何年かのちに脱退した。でもバンドは新たなギターを迎えて継続。
新しいギターを迎えたあとのライブに行った。始まって直ぐ、悲しくて涙が溢れてきた。どうして別の人がここにいて、ここで弾いているのか。どうしてこんなステージを見せるのか、意味が分からなかった。
そのメンバーがいたからライブに行って、ライブに行ったら曲を好きなって、そしてバンドを好きになった。その自分にとって、そのギターがいないバンドはバンドとして成り立たないし、曲だって違うものに聞こえる。当時の日記には「もう昔の音源だけ聴く。今のは聴きたくない。」と書かれていた。
脱退した経緯だって、バンドを継続することになった理由だって知りもしないのに、一方的に自分の感情を押し付けただけの、今から思えば失礼な振る舞いであったとしみじみ思う。でも、その時はそんなことを考えることが出来なかった。それは「メンバー個人への思い」が一番にあって原点だったから、自分のエゴしか考えていなかった。
対してSIAM SHADEは、楽曲が私の原点。「RAIN」に一目ぼれしたところから始まり、「SIAM SHADE Ⅱ」で楽曲と栄喜の声,一馬とのツインヴォーカルにやられ、「SIAM SHADE Ⅲ」でトドメを刺された。「SIAM SHADEが生み出した曲」が好きだから、曲を聴いたら湧き立つ。そこで栄喜が唄っていたら感情が揺さぶられる。そして5人で音を奏でたら、その感情が溢れ出す。
私は「SIAM SHADEの曲」が生きていて欲しいし、忘れられないでいて欲しい。だから、どんな形であれメンバーが楽曲をプレイしてくれたら嬉しいし、むしろ、ありがとうという気持ちが強い。そんな思いから、栄喜道もSIAM SOPHIAも抵抗なく受け入れられた。
だけど、昔の私のように「メンバーへの思い」が最優先で占める割合が高ければ、そうはならない。5人が揃っていなければ「SIAM SHADE」ではないし、「SIAM SHADE」ではないから、出てくる音は別の曲になる。程度の差こそあれ、そう考える人もいると思う。
またそれとは別に、「SIAM SHADE 5人の音」が最優先であり原点で、SIAM SHADEの楽曲は5人での音が絶対条件である人にとっても、同じことが言えるのはないかとも思う。
もちろん、諸事情は関係なく割り切れる人もいるだろうし、これ以外にも色々な考えがある。バックボーンは千差万別で、これに優劣をつけることは出来ない。
私もSIAM SHADE 5人の音が一番で、それに勝るものはない。
「SIAM SHADEが生み出した曲」を「SIAM SHADEが奏でる」そのステージをまた見たい、その音をまた聴きたい。
受け止め方は違うかも知れないけど、最終的に辿り着く思い、それはきっとみんな同じ。ただ、そこまでの道が違うだけ。
先に出たそれぞれのメッセージと記事を読んで、また言葉を聞いて、メンバーみんなが「SIAM SHADE」とその楽曲を、そしてファンを、それぞれの立場と信条で大事に思ってくれていることが分かった。
裁判に至るまでの経緯や過去のこと,メンバー間のことは当事者にしか分からない。私は過去のあの経験から、あれこれ思いを巡らせたところで「自分は近くて遠いただのファン」でしかないと思っている。近いと思いがち、でもそれは違う。近いのは、楽曲に触れた時とライブやイベントの時だけ。過度なエゴの押し付けだけはしないように、それを忘れないようにSIAM SHADEの楽曲を楽しんでいく。これが近くて遠いファンである自分に出来ることではないかと思っている。
これからも、メンバーみんなの音楽活動は続いていく。
30年も経ったなんて実感が湧かない。
SIAM SHADEより、個々の活動を見ている時間の方が長いんだよね。
その日が来ても来なくても、みんなの姿が見たいから、みんなの楽曲が聴きたいから、出来る範囲で私もメンバーの姿を追いかける。音源を聞いてライブに行って楽しむだけの、昔と相変わらず優良なファンではないけれど、いつまで経ってもそのスタンスは変わらない。私の中では現在進行形で、生活の一部になってしまっているからね。
人生100年時代とは言え、動ける時間は短くて、時はどんどん過ぎていく。これから先のその動ける時間を、思うように進んでいって欲しいと思っています。
そしてもし、もしもまた全員が自発的に集まりたいと思う日がきたら、その時はさ、シャム祭りやろう。
マンスリーでメンバーDAY設けてね、6ヵ月連続でライブをやるの。最終月はSIAM SHADEね。本当は2DAYSでソロDAY+シャムDAYが出来ればいいけど、そこは年を重ねた紳士淑女だから無理は禁物。だからマンスリーで。
メンバー全員の音楽の歩みをお祝い出来たら楽しいだろうなって、少しだけエゴが出た、そんな妄想をして今回は終わり。
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5年後か10年後にこれを読み直すことになるかな。
続きはまたその時に。
未来の自分へロングパス。