過剰な自意識と、卑屈精神と復学と。 | 仮面浪人失敗からの紆余曲折ブログ

仮面浪人失敗からの紆余曲折ブログ

予備校で一浪したのち、MARCH理工から仮面浪人で阪大薬学部を目指すも失敗。仮面浪人失敗によって背負ったツケを日々払いながら、一歩一歩卒業に向かってゆく

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私は、いつ頃からそうなったのかはっきりとしないのだが、非常な、度の過ぎた自意識に支配されながら生きている。私は常に、「他者からどう見られているのか」を気にしながら、他人の顔色を窺い窺い、今目の前にいる相手を失望させないことに全神経を集中させて日々を送っている。いつ如何なる時、誰に対しても嫌われずにいることを第一に、自分を押し殺し押し殺し生きている。私は、私という存在そのものを、“自分の価値観”で以て評価することが出来ず、絶えず“眼前にいる相手の価値観”で以て評価する。このため、私の言動を相手が「評価する」と言ってくれれば、私はその時、その場に限り、自身の存在を肯定することが出来る。が、それとは反対に、仮に、自身の行った言動に多少なりとの自信があったとしても、相手からそれを「評価しない」と断言されてしまえば、たちどころに私はそれまで有していた己の価値観を訝ることとなり、それだけに留まらず、自身の存在そのものに対しても否定的な所感を抱いてしまうことになるのである。自身の存在への肯定感が一時的なものであるのに対して、この否定的な所感というものは、随分長い間、私を苦しめることになる。自己否定感が生まれると、たちまち私は、その場に自分という、自我を有する一個体が存在しているという事実が酷くみっともないものに感じられてしまって、何をするにも虚しく、そこから派生した自己無力感も相まって、輾転として、幾晩も眠られぬ夜を過ごすことになるのである。また、一時的な肯定感を仮に得られたとしても、その後に関わってゆく人達の「評価」も同様にして頂けなければ、結局は自己否定感が生まれ、長い間「幾晩も眠られぬ夜」を過ごすことになってしまうわけだから、常に油断がならない。だからこそ私は、自分が傷つかぬように、周囲の人間の私に対する評価を過剰に窺い、私の存在が他者にとっての不利益とならないよう、他者から失望の情を引き出さぬよう、細心の注意を払うことに神経を研ぎ澄まし、四六時中緊張しているのである。こうした心理が行動の第一原則となっている私の人間性を一言で表すのなら、それはもう「卑屈な八方美人」ということで間違いはない。私は他者と関わりを持つ際、計算し尽くされた外交辞令やお追従笑いをここぞとばかりに、これでもかと巧みに織り交ぜ、意図的に自身を“下等な人間”であると相手に認識させ、私を下とする内面的な上下関係をその相手との間に構築し、徹底的にその人に対して無害であることを貫くよう努めている。眼前の相手に、“私は攻撃するには取るに足らぬ人間である”ということを認識させるよう努めている。私は、この世に存在する全ての人から攻撃、批判、またはこれに準ずる否定の類を受けたくないし、それどころか、あわよくば好かれていたいなどという下品な思いを抱いている。それは他者への思いやりなどでは決してなく、「自分が傷付きたくない」のだとする、言わば究極の自己愛に基づいた愚かな思考なのである。この肥大し過ぎた自己愛ゆえに、私は、100%の人から敵意を持たれぬよう、自分の意思は心の奥底に沈め、なるたけ当たり障りのないよう、目の前の相手に迎合することに重きを置きながら生きているのである。従って、私には「自分の意見を述べる」とか、「自分らしく生きる」ことに対する能力が著しく欠如しており、そのため、私には人間的な魅力というものが微塵もないのである。私という人間は、「人様に不快感を与えないこと」のみをプログラミングされ、その一つ一つを不器用にこなすだけの、旧世代のポンコツロボット同然なのである─なんてことを言って表面上では自分をこんな風にボロクソに叩いておきながら、実のところ、内面においては、「私は下品な、取るに足らない人間」とする上の記述の全てが私の本心というわけでは決してないのだから、本当に助からない。実は、私は、心のずっと奥底の部分では、「自身に全く人間的な魅力が無い」などとは、思っていない。他者の多くが持ち合わせていない“何か”をきっと持ち合わせているはずだと、心底では固く信じているのである。今まで、この漠然とした自信のようなものに大きく依存し、必死に縋り、しがみ付いてきたからこそ、私は、「非常に生き辛い」と感じる人生をどうにかここまで堪え忍んで来られたのである。ただ、その「漠然とした自信」だけは、自身の生きる原動力そのものに直結するため、他の何よりも攻撃されるのが怖く、またそういった、ふわふわとした実態を伴わぬ自信を有していることを看破され、これを見事に攻撃されてしまうのは私にとって甚だ具合が悪いからこそ、自分をここまでしてコテンパンにやっつけて、自己防衛を図っているのである。私が、私自身をこうして「魅力が無い」だとか「旧世代のポンコツロボットだ」とか言って散々に殴ってさえいれば、私の事を気に入らんとする人々も、攻撃せんとする相手がこうも自らを痛めつけてしまっていては、どうも張り合いが抜けてしまって、この様な人間を批判することそのものがバカバカしく思われてしまうあまりに、私を攻撃するのを止めてくれるだろうという、これまた巧みな、人様の心理に付け込んだ自己防衛なのである。私はこのように、自分を守るため、自己のアイデンティティを捩じ伏せ、叩き伏せ、自身の意思とは全く無関係に、場当たり対処的な言動を長いことずっと続けて来た。が、実はその場当たり対処的なその言動こそ、自身の人生、と言うか、自身の「人間的魅力」とやらをよりつまらぬものにしていることに気が付かされたのは、就活に悪戦苦闘していた時期であり、実につい最近の事なのである。(今だから言うのだが、私にとって、卑屈であることが許されない“就活”というものは、なかなか苦しかった。惨憺たる大学生活とは苦しんだ期間が大きく異なるため、この“大学生活”よりは辛い過去が少なくて済んだが、その苦しさの種類は、私の人生において最も苦しんでいる“大学生活”に肉薄するものであったから、相当しんどかった。何が「自己PR」だ。そんな酷なもの、出来るわけないじゃないか。)
本当に魅力のある人間というのは、100%の人から敵意を持たれぬよう、印象に残らぬ、当たり障りのない言動を挙動不審に繰り返す私の様な無害特化型の人間では断じてなく、自分の意見を、自分らしさというものを、反感する者の出現をも恐れずズバズバと言える、ないし発揮できる人間なのである。そういった人間の方が、何だかんだで、他者から好かれる類の魅力ある人間になるのである。是非とも、私はそのような人間にならなくてはならない。周囲の目を過剰に気にすることなく、自分らしさを存分に発揮できる人間になった暁には、きっと今よりずっとマトモな人生を送られるようになるはずである。



さて、理論・分析の時間は、これまである。私のブログは全体的に、理論・分析ばかりが多くて、イマイチ進歩が見られない。今が不幸せである原因が分かっているのなら、ちょっとは改善することを考えてみてはいかがだろうか。折角ブログをやっているのだから、私が自意識過剰の脱出のための何らかの方法を案出し、実践し、それを公表して、同じ様な悩みを抱え苦しむ人々に一縷の望みを見せてみてはどうだろうか。そもそも、私がこの仮面浪人ブログを2013年から始めたきっかけも、「予備校浪人した後の仮面浪人であってもこのようにして成功することができるのである。見たか、知⚪︎袋にいる辛辣な回答者達よ。君達の説教は、このブログの前には全くの無力である。進路に悩む受験生よ、仮面浪人だろうが何だろうが、叶えたい夢があるのなら大いに挑戦すれば良い」という実体験に基づく一例、ならびに激励を提供することで、同じ境遇となった受験生に希望を与えたいとする情熱から来たものだったではないか。皮肉なことに、その目的遠く叶わず、今となってはこのブログはこうして、⚪︎恵袋の回答者のご忠告通りの、随分と陰惨なものになってしまったが(あ、ここ笑うところね)、こんな私にだってまだ伝えられるものがあるはずだと思っている。その一つが、上述した「肥大した自己愛に基づいた自意識過剰への対処」であると考えている。


私は、自身の日々の生活を注意して省みることで、周りの目ばかりに囚われている自分を変えようと思った。そしてその「日々の生活」の主は、今は復学後の大学生活ということになっている。これから、自身の認知の歪みを実例に基づき、書いていきたいと思っている。言い換えるならば、私の内面を言語化することで、いかに自意識過剰が無益なものであるかを、伝えてみようというわけである。自分を変えようとする試みは、復学直後から行っているものであるから、書くネタには困っていない。ただ、私は今研究室でガタガタとこんな文章を書いているわけだが、私のような不出来な人間が、このような研究テーマに全く関係のない奇怪な内容の文章をいつまでも書き続けていては体裁があまりよろしくないので、続きはまた、まとまった時間の取れる別の機会に書こうと思っている。余程のことがない限り、12/1までには更新するつもりである。特に、この文章を見て「思わず笑ってしまった」などという方がいらっしゃれば、その方にとっては不名誉ながら、それはもう私と大変気が合うことであろうと思われるので、次回の記事も読んでいただければ幸甚である。不尽。