ヴァイス・ボゼック
『おまえたちなんかと一緒に暮らす世界なんて望んじゃいねぇ!
そんな平等、クソ食らえだ!』
主人公デニムの幼馴染にして親友のヴァイス。
直情型で行動力があり、
デニムに対しては
大きなコンプレックスを抱いています。
のんだくれの父親の気まぐれな暴力と
一握りの愛情に振り回されて
育ってきたヴァイス。
彼の鬱屈はいかばかりだったでしょうか。
しかし、一年前の冬、
ゴリアテの虐殺で
その唯一の肉親も殺されて、
彼は天涯孤独の身の上です。
「父子家庭だった」という点ではデニムと全く同じ。
しかし、デニムには美しい姉カチュアがいて
過剰なほどの愛情を彼一人に向けています。
そうでなくとも、
デニムの父と自分の父とは雲泥の差。
町の人々に白い目を向けられ、
軽蔑されている自分の父に対し、
品行方正で町の人々の尊敬を
一身に集めるデニムの父。
酒臭い息をあびて、
殴られて育ってきたヴァイスに対し、
デニムはあふれんばかりの
愛情と道徳のもと、
素晴らしい父親の手で、
まっすぐに育てられてきたのです。
まぶしいデニム。
そして常に、その陰の色濃さにばかり
目がいく自分。
おそらく、デニムの人望は
同年代の間において、
父プランシーに勝るとも劣らないもの
だったと思います。
友人として強く惹きつけられると同時に
常に(しかもデニム自身は無自覚に)
違いを見せつけてくる存在への愛憎。
「オレが悪いんじゃない。
オレは恵まれていなかっただけなんだ」
ぶくぶくと肥大化する劣等感。
おまけに自分たちウォルスタ人は、
ウォルスタ人だというだけで
差別され、迫害されている。
「オレは馬鹿にされている。
みんなにも、あいつらにも」
とヴァイスの中で怒りは
大きく育っていったものと思います。
ルサンチマン、という言葉が似合う男、
それがヴァイスです。
彼の怒りの行き先とははたしてどこでしょうか。
顔を変える他者、ひいては顔なき他者でしかなく、
見方を変えればやつあたりでしかない。
勿論、民族の問題は根深いです。
それでも、ヴァイスを見ていると、
彼自身が彼自身の問題を背負いかねて、
いろんな名目を借りて爆発しているに過ぎないのかな
という気がしてしまいます。
彼の憎悪の相手は
多数派のガルガスタン人であり、
支配者階級のバクラム人であったことでしょう。
いえ、他民族だけではありません。
町の人々であり、自分の父親であり、
プランシーでさえあったかもしれません。
そして、デニム。
主人公デニムに対し、
彼は友愛と憎しみのはざまで
もだえたことでしょう。
それほどの憎悪が芽生える理由。
それはほかならぬヴァイスがおとしめられる自分に
一度たりとも自信を持つことができなかったからに
違いないのです。
自分自身を愛せない。
今作での追加の台詞で、
ヴァイスが自分たちを差別するガルガスタン人に対して、
「オレたちが嫌われているのではなく、
オレたちがお前たちを嫌っているんだ」
といった主張をぶつけるシーンがあります。
なるほど、ガスガスタン人による差別は確かに酷い。
確かに存在する。
しかし、それにあらがうのためのヴァイスの発想は
戦いの鎖を断ち切るものではなく、
むしろ自分自身が劣等感に苛まれるあまり、
血で血を洗おうとするものです。
結局、民族主義を掲げるヴァイスが目指した先に、
平和などなく、
差別に対して差別で勝とうというものに過ぎません。
ただ、ヴァイスは、二章以降、デニムの選択によって
大きく人間性を変えることになります。
彼は常にデニムの反対を行くのです。
そして、わたしはCルート。
この小説では
理想を追い求めるデニムに対し、
転落していくヴァイスという
ルートを進む予定です。
Cルートのヴァイスはもしかしたら、
今のわたしたちのありかたを
投影しているのではないかとさえ
思うことがあります。
不景気から自信を失い、
個々人のルサンチマンを
なんらかの建前に結びつけて
排外主義に走り、
優しさを忘れがち……
胸が痛くなります。
ちなみに、Lルート
(これはデニムが自民族のために
手を汚した場合)の彼は、
デニムの選択を批判し、
Cルートとはまるで逆。
理想を追い求め、
自民族の平和を追求するうちに、
他民族のことも視野に入れ、と
ものすごく人間ができています。
……でも、これ、一章終わりの段階では
突っ込まざるを得ないのです。
第一章との温度差で
「いくらコンプレックスのカタマリだったとはいえ、
デニムと反対方向にいった結果とはいえ、
なんか自立できてしまったとはいえ、
いやいやいやいやいやこれは無理が…」
とわたしは感じてしまいます。
バクラム人の戦士(システィーナ)に対し
『おまえたちなんかと
一緒に暮らす世界なんて望んじゃいねぇ!
そんな平等、クソ食らえだ!』
というぐらいですから。
もともと、オリジナル版では
Cルートのみが正史だったようです。
(松野さんのツイッターより)
今作では、ファンの拡大を受けて、
どれを正史とするかはユーザーに任せるとのことですし、
だからLルートを罪と贖罪の物語に
脚色しなおしたというのなら、
分かる部分もあるのですが(納得はしていないにしろ)、
しかしヴァイスに関していえばやはり、
「Lのように生きてほしい、
しかしやっぱり、Cになるのでは…」
というのが今のわたしの認識です。
ただ、Lルートで自分を肯定することはできた彼の姿は
感慨深いと思います。
デニムには一生勝てなくていいと、
等身大の自分を肯定できた
空中庭園での彼の台詞は本当に胸を打つものでした。
うっかり涙ぐみました。
うう、ヴァイス…。
Cでもいつか目を覚まして、
自分自身を等身大で認めて
愛してあげられる生き方をしてほしかった、
と思わずにはいられません。
さて、ヴァイスはルートによって
顔グラフィックが変わるのですが
Cルートだとひどいありさまになります。
ちょっとネタに走りすぎ…。
(これは姉さんについてもいえるけど)
というか、
オリジナル版の精悍な方がそもそも
イメージだったので、
今作は第一章の段階で
そもそも線が細すぎてなんか違うなあと
思っています。
うーんなんか長語りになってしまいました。
なんだかんだで思い入れがあるみたいです。
なにより、彼はタクティクスオウガを語る上で
ものすごくテーマに食い込んでくる
存在なんですよね。
Cルート小説が進むにつれて、
彼についてはまた考察していきたいです。