全力とは何だろうか。ここ最近、それが思い浮かぶ瞬間が何度かあった。


なぜ思い浮かんだのかというと、勝負のとき、自分の心が「無」になっているからである。しかし、虚無ではない。雑念がなく、周りの負の言葉が気にならなくなっている。


勝負以外の場面では今まで「夢を絶対叶えてみせる」、「目標を達成したい」という欲があった。今も無いわけではない。しかし、この4年半で発見してきたものや思い描いてきたものが現実になり始め、夢を叶えること、目標達成に確信がある。また、それらの欲望は強烈だったこの4年半の間と比べて、今では当たり前になってきている。


時間が解決してくれるという考えは嫌いだ。だから、「無理矢理にでも自分で変えてやる」と、思いながら毎日練習していた。しかし、今は出来なかったことが出来るようになってきて、理想に着実に近づいていることを過去一番で実感している。自分から掴みに行くことはもちろん、何かを引き寄せているのではなく、引き寄ってきている感覚がある。ただ、やや時間に身を任せているような気がして、それに不快感がないことに戸惑いがある。


仮説→試行→メンタルケア→反省→改善は当たり前に、だが、以前よりも早く濃く行なっている。「時間が解決」してくれるのではなく、「時間と共に」成長することが大切なのではないかと思う。だから、勝負の結果に対して、悔しさや悲しさ、情けなさ、申し訳なさはあるが、以前にあった自身の成長に対する焦りや不安はほとんど無い。


このような勝負以外においての心の変化が勝負の時の「無」を生み出していると思う。

100%で望んで、心と頭が目の前に起こる事象にいっぱいいっぱいになることは全力だとは思わない。過度な緊張や興奮を引き起こしてしまう。かと言って、80、90%で余力を残して取り組むことも違うと思う。情熱の低下に陥り、失敗した時、言い訳を思いつく癖がつくと思う。


全力を尽くすとは、勝負や勝負の一瞬以外において、100%の思考と情熱で準備をして、それらの場面が来たときには、何も考えなくてもいいくらいまでの状態で戦うことだと思う。そうすれば後悔は無く、どんな結果でも受け入れることが出来る。だから、勝負以外でたくさん挑戦して、たくさん失敗をした方がいい。初めから丸バツをつけるのではなく、今しか出来ないと思って、とにかく挑戦し、失敗を成功に変えようと抗う。その経験の中で培った思考力と跳ね返す力が勝負のときに必ず自分を助けてくれる。結局、習得は無意識にできて、初めて習得と呼べる。意識的に行なっているうちはまだ習得とは呼べない。だから、膨大な「時間と共に」成長していくことが大切だと思う。


もしかしたら勝負以外の場面において挑戦することも勝負なのかもしれない。それならば、生きるすべての時間が挑戦であり、死ぬまで勝負し続けることが人生なのだろうか。わからん。