他人への思いやりと自分を貫くことの両立はすごく難しい。その二つを言い換えると、「感謝」と「信念」なのだろうか。一言では言い表すことは難しい。

最終的な判断は自分自身で決めるものだから、それが上手くいけば自分の力で成し遂げたような気分になってしまうこともある。しかし、それまでの過程において数えきれない程の、後になって気付く他人からの支えがある。それらに対して感謝を持つことを忘れてしまってはいけない。それが他人への思いやりのような気がする。それでは、自分を貫くことはいつ発揮されるのだろうか。


その他人の支えには様々な種類がある。1番分かりやすいのは「言葉」だと思う。その言葉には覆われているものがある。それは「言い方」だ。代表的なものは口調の強弱。重要なのはその言い方ではなく、言葉自体にしっかり耳を傾けることだと思う。どれだけ言い方が強くても、言葉に自分への思いやりがあるかどうかを自分の耳を使って「聞き分ける」ことが大切だと思う。もし言い方に注目してしまったら、強い場合、せっかく自分の成長につながる言葉、他人からの支えを掴み損ねてしまう。非常にもったいない。逆のパターンが1番怖い。言い方が優しい場合でも、言葉がゴミクズのような内容だった場合、色で例えるなら前者は「赤」に対して、後者は「黒」の怖さを感じる。さらに、詐欺師はゴミクズの言葉の上にうまい言葉と優しい言い方を二重、三重にも重ねてくる。だから、聞く力はとても大切だ。


この聞く力を持つことが出来たら、現代のネット社会でしっかり生きていくことができる。ネット社会に限ったことではないが、現実(リアル)においても誹謗中傷は存在する。それは言い換えると「否定」だと思う。「死ね」、「消えろ」、「何の意味があるんだよ」、「無駄だからやめろ」など中身のない「言葉」だ。一方で「〜だから...が良いと思う」、「〜よりも...の方がいいんじゃない?」など当人の考えに基づいた、中身のある言葉は言い方がどうであれ、とても貴重だ。これを言い換えると「批判」だと思う。批判はマイナスなイメージがあるが、そんなことは全くない。評価のプラスマイナスを表す言葉であって、批判自体はマイナスではない。


聞く力を持つことで、自身に来る言葉が否定か批判かを区別することができる。

僕は否定は無視するが、批判は受け入れることを心掛けている。僕は社会人1年目の頃の仕事、日々の練習において毎日怒られてた、ている。それは自分に対して優しいものばかりではなく、強い言い方で否定されることが多々ある。人間だから、咄嗟に出る言葉が感情的になるし、自分の実力不足も関係しているから仕方がない。その時言い方に意識が行ってしまうと、否定の言葉も含めたダブル攻撃を食らってしまうし、先述したが、批判を聞き逃してしまい、その言葉を発する人に対して、ただ悪い印象を重ねてしまう。


否定されると、悔しさ、怒り、悲しみが大きくなる。それを募らせてしまうと、うつ病になったり、恨みに変わってしまい、最悪の場合殺人を犯してもおかしくないと思う。ただただ自分の人生の崩壊につながる。他人のせいとして片付けるのが簡単かもしれないけど、その前に自分から解決できると思う。だから、言い方ではなく、言葉に耳を傾けることが必要だ。そして、否定は無視して、批判を受け入れる。否定されたら、生まれた悔しさそのもので物事に取り組むのではなく、悔しさという殻を剥き、中にあるエネルギーだけ取り出して、楽しさの殻を取り付けて、自分の成長につながることに全力で取り組めば、ブレない自分が構築されていく。それが「自分を貫く」ことだと思う。


近年、SNSの発展とともに、心の問題が浮き彫りになっている。否定の言葉がきっかけで自殺してしまった人は一体どれほどいるのだろうか。ネットで否定の言葉を用いる奴はそのような大問題になった時、ただ逃げるだけ。自分の言葉に責任を持たない暇な小心者だ。


昔の人は「便りがないのは無事な証拠」というほど、気軽に連絡なんてできる時代ではなかった。それに加えて、戦争で殺したくもないのに武器を持たされて、お互い大切な人たちがいるのに殺し合いをするというすごく悲しい時代だった。それが今でも行われている国はたくさんある。そんな時代・国があるにも関わらず、現代において携帯、SNSという発展してきた技術をなぜ人を殺す武器に変えるようなカスな行為をするのだろうか。そんなカスみたいな人はその技術には開発者たちのどれほどの情熱、労力、苦労、時間が詰まっているのか考えたことはないのか。そんな奴らに思いやりなんていらない。自分の夢を叶えることへの全身全霊の挑戦と支えてくれる人たちへの感謝あるのみ。


誰かからつけられた価値 ちょっと目が眩んだ

いつの日か始めたころの 心忘れていた

なんの確証もない未来みてる

目指した夢に 全然自信が持てずに

戸惑う君の背中押したい

大切なもの自分自身だって 己の手掴んでみる


まだ途中(BiSH)