NHK大河ドラマ「功名が辻」が終わりました。その時々の岐路に悩む山内一豊と千代が外を見あげれば、そこにはいつも満月がありました。私はそのたびに違和感をおぼえてしまいます。NHKはどうしていつも満月のシーンしか使わないのだろう。超高感度・高画質のHARPカメラがあるのだから、三日月だってきれいに撮れるだろうにと思います。というより、満月以外のシーンを使う度胸がないのではないか思ってます。それからもうひとつ違和感があるのは、満月が小さいこと。低いところにある満月はとても大きいはずなのに、千代の見あげる満月はいつも小さいのです。


 地平線に近い月や太陽が大きく見える現象を「月の錯視(Moon illusion)」といいます。もちろん月が大きくなるわけではありません。ただ大きく見えると思っているだけです。カメラで撮ればちゃんと小さな月になっています。太陽は月の400倍の大きさですが、距離も400倍あるため、みかけはどちらも同じくらいの大きさになります。月は視直径で1°の約半分、0°32′しかありません。腕を50センチほど伸ばした先の五円玉の孔にちょうど入るくらいの大きさです。地平線の近くにあろうと天頂付近にあろうと、大きさに違いはありませんので、機会があったら試してみてください。


 どうして大きく見えるのか。自分にだけ大きく見えるのか。だれもが大きく見えるといいますから、個人だけの能力や錯覚の問題ではなさそうです。ところが意外にもいまだ解決されていない問題なのです。アリストテレスは空気の層を通るときの屈折よって大きく見えるとしました。しかしこんな説は五円玉の実験で簡単に否定できます。このほかにも、瞳孔が拡大する説、眼の水晶体が扁平になるからという説、地平線には比較する物があるからという地上物体説、などなどいろんな説が提案されてきました。


私がいちばん納得しているのは天空扁平説です。1783年、イギリスのR.スミスが著書「光学大全」に提案したものです。天頂方向は比較するものがないため、地平よりも近づいて見える。そのため天空は一様な丸天井ではなく、上下に押しつぶされたような扁平状に見える。月はこの扁平面に投影されているとして認識されるので、視直径が同じであっても、水平方向は遠くにあるから大きく、天頂方向は近くにあるから小さく感じられるというものです。ただし天空をほんとうに扁平に感じているのかといわれると、そこのところがちょっと…。


 すべての人に見え、同じように間違えて感じることを錯視といいます。薬物などで、その人にしか見えないものを幻視といって区別します。月の錯視は二千年の歴史があるものです。19世紀の天文学者や科学者は肉眼で観察することが主であったわけですから、肉眼で観察した結果に信頼がおけないことは重大な関心事でした。それで錯視の研究が盛んに行われようになりました。図はポッゲンドルフ(J.Poggendorff)が提案した「ゆがむ斜線」です。斜線ではゆがんで見えますが、垂直にするとゆがみはなくなります。斜めの線は錯視の効果が大きいのです。色彩や明度も錯視に関係します。囲碁の石には黒と白があり、白の石は少し小さくできています。明るい白は大きく見えますから、見た目が同じ大きさになるように工夫しているのです。夜目遠目傘のうち、も錯視の一種でしょうか。女性が赤やピンクの色使いをして若々しく見せるのも錯視の応用です。ただし、あばたがえくぼに見えるのは幻視かもしれませんのご用心を。


 ずいぶん昔のことになりますが、大学の同僚の家族どうしで公園にでかけたことがあります。小さな泉のほとりで休んでいたとき、男の子が「わに!」と叫んで飛び退きました。何事かと思って見てみると、岩の上にヤモリが一匹。子どもはワニだと思ったのでしょう、思わず笑ってしまいました。実物のワニを見たことのない子どもがTVなどでワニを観ていたとしたら、ヤモリと大きさはまるで違いますが、同じ爬虫類だとよく識別できたものだと感心したのが半分、実体験のない者にとってTVは大きさの概念をなくしてしまうものだと感じたのが半分でした。


 人間の肉眼には見えないものを見えるようにして科学は進歩してきました。スケールの小さい方では顕微鏡、スケールの大きいものでは天体望遠鏡です。初期の顕微鏡はビー玉式のもので、あまり倍率は高くありませんでしたが、微生物や精子などが発見されました。1660年ころ、イギリスの科学者ロバート・フックが2枚の凸レンズを組み合わせた複式顕微鏡を作り、小さなノミやシラミなどを観察したばかりでなく、コルクの「細胞」を最初に記載しました。それまで、人間の精子のなかにはホムンクルスという人間の形をした小さなものが膝を抱えて座っていると信じられていましたが、顕微鏡によって細胞レベルの観察が行われ、胚の発生の過程が明らかにされて、生命科学は飛躍的に発展していきます。ガリレオは望遠鏡を使い、木星には衛星があることを、太陽には黒点があることを、金星には満ち欠けがあることを発見し、これらはすべて古代の地球中心モデルと矛盾することを示し、太陽が中心であることを擁護しました。いまでも宇宙論を作り仮説を検証するには望遠鏡が欠かせないツールとなっています。


 深海有人潜水船は必要なのか不要なのかという議論をするときにキーとなる重要な論点は、深海で科学者が直接に観察しなければいけないのか、高性能のカメラを開発すれば無人機で十分ではないか、ということに集約されます。生物学者は自分の眼で観察したいと小声で言いますし、無人機の開発者は高性能のカメラを開発すればいい、それが科学技術というものだと声高らかに主張します。見えないものを見えるようにする、これが科学技術であることは確かです。しかしそうやって見えるようにしたものを観るのは科学者です。そこで科学者は想像力を働かせて観ているものを解釈しなければなりません。科学は自然の法則を明らかにしようとする人間の知的な行為です。科学者に見えるものなら見えるようにするのも科学技術ではないでしょうか。


 画像データを大量に取得して定量的な分析を行い、多くの知識を積みあげていく分析科学的な仕事は大切です。しかしなにを観ているのか理解できる総合科学的な知恵はもっと大切です。画像を分析する多くの科学者は必要です。しかし現象を生で観て理解できる科学者は少数でも必要なのです。そのためのツールを開発するのが科学技術の基本であり、深海有人潜水船の存在意義であると私は信じております。