モナリザはルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作であり、その神秘的な謎の微笑によって多くの者を魅了してきました。しかし一方では夏目漱石が、この女はなにをするか分からない気味の悪い人相だ、と書いたように、見ようによっては変な気持ちにさせる絵でもあります。どうしてそんな気持ちになるのかというと、絵の左右が非対称だからです。右目は観る者を見つめているのに、左目は視線を左に逸らせています。口元も、向かって右側はほほ笑んでいるようなのに、左側は憂いを含んでいるようです。そして肖像画には珍しく、背景が自然の風景になっていて、向かって左側では、首の高さに湖があり、そこから川が流れ落ちています。右側の背景は左側と連続しているようには見えません。


 モナリザのモデルはだれなのでしょうか。フィレンツェの大富豪ジョコンド夫人エリザベットであろうといわれており、この絵もフランスではラ・ジョコンダと呼ばれています。なお、ジョコンダはイタリア語のジョコンダーレ(英語のjoy)と音が似ており、「微笑む女性」のイメージと重なっています。ところが顔は鼻とか額とか、なんとなく作者のダ・ヴィンチ自身にそっくりなので、若いころの自画像なのではないかという説もあります。だれかの肖像画として描き始めたのかもしれませんが、終生手ばなすことがなかったということからすれば、いつしか心象画へと変わっていったのでしょう。それならダ・ヴィンチはいったいなにを表現しようとしていたのでしょうか。


 モナリザはダ・ヴィンチの地球観を表したものであるという説があります。少し前に亡くなった進化生物学者ジェイ・グールドが科学エッセー「ダ・ヴィンチの二枚貝」に発表しました。この本の第1章「生きている地球の山を化石に登らせたレオナルド」のなかで、アルプスの山中で発見された二枚貝の化石についてダ・ヴィンチがどのように考えていたかを論証しています。海洋生物の遺骸である貝化石がなぜ山の地層のなかに埋まっているのかということについて、当時は二つの考え方がありました。当時の一般的な考え方では、すべての化石はノアの大洪水によって山の上に運ばれたというものです。しかし一回の洪水ではいろんな地層にあるはずはないし、二枚貝の化石だったらばらばらになっているはずなのに、生きていた場所にそのまま保存されているのはおかしい、という疑問がありました。もう一つの「科学的」な考え方では、化石は生物の遺骸などではなく、岩石内で「成長」したものだとされていました。これにも、もともと海洋だったような地層だけでなく、すべての地層で「成長」していないのはおかしい、破片とかに「成長」することが説明できない、あるいは化石の殻には年輪みたいなものがあるのに、周囲の岩を押しのけて破壊していない、など多くに疑問がありました。ダ・ヴィンチは当時の無知と屁理屈にもとづく説をのり越えようとしていたのです。


 なぜダ・ヴィンチは当時の一般的な説を否定しようとしたのか。比類のない天才だったから、といわれますが、じつは当時にあってダ・ヴィンチは、現象を緻密に観察し実験によって確かめる、という近代的な方法論を実践していました。16世紀の初頭にあって、すでに19世紀の地質学者のような研究をしていたのです。それからダ・ヴィンチにはキリスト教世界観とは異なる独自の地球観がありました。当時の一般的な考え方を受け入れては自説が崩れてしまうので、なんとしてでも否定しなければならなかったのです。


 ダ・ヴィンチは地球をマクロコズム(大生命体)、人間をミクロコズム(小生命体)とみたてて対照させ、両方を因果の糸で結びつけようとしました。人体も地球も四つの元素(土、水、空気、火)から成り立っている、人体は四つの元素を循環させることによって維持されている、それなら地球も循環によって自らを維持するメカニズムがあるはずだ、地球内部にも血管のような水脈があり、水を高いところに送っていなければならない、というのがダ・ヴィンチの地球理論です。ダ・ヴィンチは自説を擁護するものとして貝化石をもちだしたのです。四元素のうち、土と水は重いから、地球の中心に層をなして安定しているだろう。しかしなんらかの仕組みがあって、循環しているはずだ。山の上に化石があるというのは土が上昇できる証拠であるとしたのです。
 地球の表面でも内部でも、水の浸食作用によって土は削られる。地中の水脈が空洞をうがち、天井の岩が地球の中心にむけて崩落する。すると地球の片方に重量が加わり、他方は軽くなる。軽くなった側は地球の中心から遠ざかり、高く隆起することになる。だから海の生物の化石を含んだ岩の層が高い山の頂上で見つかることになるというのです。また地表の侵食で削られた岩は海へと運ばれ、地球の反対側へと流れていき、重量差がますます大きくなり、山はさらに隆起することになるとしました。ダ・ヴィンチは聖書の解釈とは異なる造山運動論を考えていたのです。


 しかしダ・ヴィンチは水を循環させる仕組みを見つけることはできませんでした。ただ潮の干満についておもしろい解釈をしています。人間の肉体には肉を支える骨があるように、地球を支えるには岩がある。人間には血の池があり、息をするたびに肺のなかの池は拡大収縮する。これと同じように、地球には海がある、6時間ごとに地球が息をすると海は拡大収縮して潮が満ち引きするのだ。血の池から血管が伸びているように、地球の海からも無数の水脈が出ているはずなのだ、といいます。


 ダ・ヴィンチは自説の地球観を絵に表わそうとしたのではないでしょうか。モナリザの背景には水の複雑な循環の様子が描かれており、その流れがラ・ジョコンダの髪や衣服のしわへとつながっています。微妙なウェーブをみせながら垂れさがる美しい髪は水の動きと一体となっています。肉体と地球はこれほどまで似ているのだから、肉体に血管があるように地球の内部にも水脈がある、ということをダ・ヴィンチは表現したかったのでしょう。だからこそ、それを実証することができなかったダ・ヴィンチはモナリザの絵を手ばなすことができなかったのだと思います。


 ダ・ヴィンチの予想はいまでは単なるアナロジーにすぎないとされています。しかし現代の地球科学における重要なキーワードは地球内部の水循環です。水を含んだ海洋地殻が大陸地殻の下にもぐりこんでいくときに、水は絞りだされて循環します。熱水現象も、地殻内微生物の存在も、また地震発生のメカニズムも地殻内水循環が重要な役割を果たしています。現代地球科学の常識などまるで想像もつかなかった500年もまえに、ダ・ヴィンチはこれだけのことをアナロジーできたのです。アナロジーによってこそ、それから何百年もかけなければ確証できない予測をたてることができたし、疑問を提起し、問題や現象の統合をおこなえたのです。


 生命体としての地球をモナリザによって描こうとしたのであれば、モナリザには地球の二面性をもたせなければなりません。豊かで人間に恵みをもたらす地球と荒々しく天変地異をもたらす地球です。これをダ・ヴィンチは左右の非対称性として、奇妙なアンバランスとして一枚の絵のなかに表現したのではないでしょうか。
(参考文献)
・Stephen Jay Gould:ダ・ヴィンチの二枚貝、渡辺政隆訳、早川書房、2002年