海洋科学技術は英語では「Marine Science and Technology」とされております。ずっとそうだと信じてきました。ただ、「and」をどう訳すのかということがいつも心にひっかかっておりました。「科学技術」は「科学と技術」あるいは「科学・技術」と訳すべきなのだけれども、「と」や「・」はなくてもあるつもりで理解していた、といったところでしょうか。しかし近年の「科学技術」の理解では、「科学の知見を活かした」技術の一部であるとして、一語で「Technology」とするのが定着しつつあります。ですから最近の文献で「Technology」を和訳するときには、「科学技術」としなければならないときがありますので要注意です。


 「科学」と「科学技術」と「技術」の定義が人それぞれで、いろんな観点から議論されますので混乱してしまいます。「宗教と科学」ということで「科学」を非難する人はだいたい「科学技術」を槍玉にあげているみたいです。「巨大科学」というと、巨大なのは対象とする「科学」の時間的空間的スケールが大きいということもありますが、むしろ科学研究を支える「科学技術」や予算の規模であったりします。


 「科学」と「技術」は長いあいだずっと違うものでした。それではどれくらい違うのかというと、古来、まるで関係のないものだったのです。古代ギリシャの流れをくむ西欧の理解では、「科学」は知的観念の営み、すなわちフィロソフィー(知を愛する=哲学)であり、「技術」は生きていくための技能(テクネー)にすぎないとされました。奴隷制度が完備していたギリシャでは、生活のなかの技能は奴隷に依存しており、「市民」に技術は無縁でした。ただし「奴隷」といってもアメリカの黒人奴隷とまったく同じではありません。奴隷とは「市民」の生活を支えるために、あらゆるサービスをする人たちであり、市民に生きることを依存していた人たちです。いずれにしろ「科学」は貴くて「技術」は卑しいという観念がずっとありました。いまでもあります。イギリスには大学に「工学部(Faculty of Engineering)」という名称の学部はありません。フランスではいまでも大学は哲学や数学などの知識を再生産する場であり、技術開発などの実務に携わる人を教育する場ではない、とされており、優秀な技術者の不足に悩んでいます。米国には工学部があり、優秀な学生を集めていますが、そこで取得した学位は哲学博士(PhD)であり、工学博士ではありません。日本の大学の工学部で博士号をとり、工学博士(DoE)と自己紹介すると、技術者あがりかと誤解されてしまいます。


 西欧において科学技術は産業革命とともに発展していきました。またこの科学技術とともに社会には中産階級(middle class)が成長していきます。西欧から日本に科学と科学技術が入ってくるとき、日本人は西欧文明が進んでいるのは「科学技術」によるものであると見抜いたのではないでしょうか。「科学」はわかりづらいけれども、「科学技術」なら理解できるし、真似することもできました。このことは仏教が日本に入ってくるとき、「仏」とは「仏像」であると理解したのと同じパターンでした。福沢諭吉が「学問のすすめ」で「ミッズルクラス」を育てることがなにより大事だとしたのは、日本には中産階級なるものがまだなくて、言葉もないので、そのまま音訳しましたが、科学と技術についてもそのまま当てはまります。日本の工学部は「科学技術学部」として発展してきたのです。


 科学技術を「科学の知見を活かした」技術とすると、なんとなくわかった気がしますけれども、科学をどの程度活かしたら科学技術なるのかはっきりしません。それで私は「科学技術」を二つの観点から定義しています。一つは一般的に理解されているものです。家を建てるという技術は「科学」が成立するまえからありましたが、「科学的」な知識を活かせば、より良いものを作りだすことができるようになります。もう一つの定義は、「科学のために役立つ技術」です。その技術によって成し遂げようとするものが科学技術であるとします。海洋科学技術とは「海洋科学」のために役立つ科学技術であると理解します。宇宙科学技術も科学の一分野である宇宙科学の役に立つものということです。天体望遠鏡や分光器やロケットなどに係る技術です。


 科学は科学技術に基礎的な法則を提供し、逆に科学技術は科学の研究に方法を提供し、総体としては共進化してきました。しかし個別に見てみると、必ずしも単純ではありません。海洋科学技術は海洋科学のために方法や手段を提供しますが、海洋科学は海洋科学技術にどんな知見をもたらしてくれるのか。海洋科学の進歩に必要な科学技術を求められますが、あくまでもニーズでしかありません。海洋科学技術のシーズはほかの一般的な科学技術にしかありません。このため、海洋科学が社会になんらかの意義を認めてもらえなければ、海洋科学技術へのニーズは消えてしまいます。「海洋科学」と「海洋科学技術」と「海洋産業(社会)」はそのような三角関係にあることになります。どこかのプレーヤーが弱いと全体としての循環が弱まってしまいます。


 たとえば、深海底に液体二酸化炭素のプールが発見されたとします。これを発見する手段は深海科学技術の発展があって可能となりました。しかしこの発見によって、ただちに海洋科学技術の発展に結びつくわけではなく、二酸化炭素の海底貯留という海洋産業が進展していけば、それによって関連する科学技術の発展も可能となります。海底の鉱物資源の発見と採鉱とモニタリングに関する技術も同じように発展していくものです。


 海洋科学技術で一つ気がかりな点は、海洋科学技術が科学技術一般にどのような貢献ができるのか、できているのかという問題です。少なくとも海洋産業への貢献を疎かにしていると、海洋科学技術はなかなか発展できないことになります。宇宙科学技術の分野はどうでしょうか。衛星の利用という直接的な産業があります。またNASAでは、宇宙科学技術のなかで生まれた技術を社会に役立てるスピンオフをずっと進めてきました。日本でも昨年あたりからスピンオフに着手しようという動きが始まりました。海洋科学技術の分野でも、海洋科学への支援にとどまらず、海洋ベンチャー企業の育成、海洋産業への貢献とを視野に入れた政策と企画がなにより大切です。


 第3期科学技術計画の重点推進4分野であるライフサイエンス、情報通信、環境、ナノ材料を支えるそれぞれのテクノロジーがあります。その他の推進4分野としてエネルギー、ものづくり、社会基盤、フロンティアがあります。海洋科学技術はフロンティアの一部として位置づけられています。フロンティアとはいい響きですけれども、「辺境」の科学技術であってはなりません。マリン・テクノロジーと言い切れるようになりたいものです。