映画「悪い奴ほどよく眠る」(1960年)について、もう一つコメントします。

 

この映画では巨悪は姿を現しません。小悪が電話で事態を報告して、指示を得ております。それを解説記事では、政官財の癒着構造であると指摘しております。政治家は官僚を手足のように使い、また政治家は産業界に都合の良い法律を作ってやる。官僚は政治家に省益にかなう法律を作ってくれるように依頼し、官僚は業界の監督官庁として指導する。産業界は政治家に献金や選挙応援をして、省庁から天下りを受け入れる。この三者は持ちつ持たれつの関係にあり、この映画が制作された当時は、自民党長期政権下で、問題視されていたということでした。この三者の関係は世界中どこにもある話ですが、ときには馴れ合いが露骨になって、事件になることがしばしばあります。

 

 三者のもたれ合いということはどこにでもあります。このいちばん簡単な例は、どなたもご存知の「ジャンケンポン」です。これは、グー(石)とチョキ(ハサミ)とパー(紙)の三つを出し合う遊びです。グーはチョキに強く、チョキはパーに強く、パーはグーに強いという関係があります。実はこの遊びは東南アジアに広くありますが、世界にはありません。日本では、単なる遊びにとどまらず、なにかの決め事をするときにも、真剣になってグーチョキパーで決着をつけたりします。これを西洋人は、きちんと議論しないで、グーチョキパーで決めるなんて、日本人はいい加減な民族だと蔑みます。確かにそういうところもありますが、西欧人だってコインの裏表で決めることがあるじゃないですか。

 

 ジャンケンポンで重要なことは、グーとチョキとパーの三つがあって、その一つを自由に選択することができるということです。もしも、パーをなくして、グーとチョキだけでジャンケンしたらどうなりますか。ジャンケンは成り立ちません。もしジャンケンで、力の強いやつが、俺はグーを出すから、おまえはチョキを出せ、と言ったらどうでしょう。公平に見えるジャンケンは遊びにも決定方法にもなりません。はっきりとではなく、なんとなく強制されたりして、このような関係が、実は社会のなかにはたくさんあります。

 

構成要素が三つあるというのが重要です。夫婦というのは男女の二者です。二者の場合は、弱い方が強い方の周りをまわって安定した関係ができています。地球が太陽を回っているように、あるいは月が地球を回っているようにです。ところがここに、別の男か女が入ってきたらどうなるでしょうか。かなりもめることになります。これを天体力学では三角関係ならぬ、三体問題といいます。三つの天体がどのような運動をするか予測がつかなくなるからです。男の子が二人いますと、よく喧嘩になりました。ここにもうひとり弟か妹ができますと、とたんに丸く収まるようになります。また兄と妹の場合ですと、いい意味での安定した二者関係ができあがります。

 

 文学の世界でも、この三角関係があります。小説家と批評家と学者です。小説家は自分の書きたい小説を書きますが、批評家から褒められか貶されるか気になります。批評家は小説家に言いたい放題できるのですが、博識ではあるといっても体系的な学問がないので、学者に頭が上がりません。学者は批評家に対してふんぞり返っても、自分で文学作品を書けるわけではありません。この三者が持ちつ持たれつして文学界ができあがっております。そしてこの三者の力関係がほぼ等しくなると、文学界は発展していきます。いい小説が生まれていきます。どこかが弱いといびつになっていきます。

 

 映画界にしてもしかりです。監督と俳優と映画会社の三者かな。監督は俳優を思うままに使える、会社は観客に気に入ってもらえるように監督に注文を出す。俳優は観客の人気をバックにして会社に強く出る。しかし三者が対等な力をもっているといい作品ができあがります。

 

 ここで注意しないといけないのは、対等な力関係というのは、例えば監督と俳優が対等な関係という意味ではないということです。三者でそれぞれの力関係が対等になっていくということです。ということなので、世間では、たとえば男女同権とか、二者が同じ力をもつべきだ、なんでもかんでも同数にすべきだというのは、愚か者の理想論だということになります。二者は別々の存在です。二者が対等になっていくには、どのような第三者を入れるか、三者のそれぞれの力が同じにするかということです。

 

 どのような組織でも、発展していくには、この三者がなにかを見つけ、その関係が対等となるように注力することが大切です。どうすれば発展していくのかと悩むのではなく、三者の力が対等になるようにすることなのです。