映画「情婦」(1957年)の原文題名は小説と同じ「検察側の証人」なのに、どうして「情婦」なのかという疑問がありました。映画会の後の懇親会でも、この点が謎のままでしたので、この二日ほど悩んできました。重要なことは、どちらの題名も、人物は殺人容疑者の妻であり主人公であるクリスティーネ(マレーネ・ディートリッヒ)であることです。また、もう一つ重要な前提条件は、小説ではアガサ・クリスティのこしらえた架空の女性(小説ではロメインという名前)であり、映画のマレーネ・ディートリッヒを想定していないということです。

 

  ビリー・ワイルダー監督が映画を作るとき、容疑者の妻の役をマレーネ・ディートリッヒにしたこと、そして名前を、ロメインからクリスティーネに変えました。監督は妻役を架空の女性ではなく、トリックを使いこなすミステリー作家アガサ・クリスティ本人であるとして、クリスティをもじってクリスティーネという名にしたのです。作家は巧妙なトリックを考え出したし、ディートリッヒはそのトリックを映画のなかで実行したのです。アガサ・クリスティの作品はいくつも映画化されておりますが、この映画がいちばん好きな作品だと言っております。映画のなかの主人公はあなたですよ、と監督に言われたようなものなのですから。ディートリッヒは作家と同じくらい冷静に妻役=アガサの演技をしたわけです。

さて、日本が洋画を買ってきて公開するときの問題は、観客にどれだけ受けるか、客の入りはどれだけだろうか、というのが最大の関心事です。欧米では「検事側の証人」でなんの問題もありません。アガサ・クリスティの作品の映画化なのですから、ズバリそのものの題名でいいのです。しかし日本では受け入れられません。「検事側の証人」という題名でマレーネ・ディートリッヒを想像することは難しい。ポスターにディートリッヒの美脚を見せて気を惹こうにも、原題とはまるで合わない。日本人が期待するディートリッヒは、「モロッコ」(1930年、29歳)であり、一途で情熱的な女性なのです。それならどうするか、とスタッフは知恵を絞ったことでしょう。

 

  「情婦」の「婦」は女性です。たいして意味はありません。あえていえば、クリスティーネはイギリスでは妻なのに、実は本当の妻ではなかった、ドイツに夫がいて、キリスト教徒ですから離婚はできなくて、独身のふりをして結婚していました。これはキリスト教世界では重婚罪という重い罪になります。とはいっても、権力のある男が若い女性に目がくらんで妻と離婚したい場合はどうするか。古来のやり方は、結婚そのものが無効であったと主張して、実質離婚します。そんな例はイギリスの歴史にたくさんあります。エリザベス一世の父ヘンリー八世はこの手を使って五回も結婚しました。「婦」という一字で、本当は妻ではない女性だといっているわけです。

 

 それで「情」が問題です。「情事」といえば、男女の愛情のもつれに関係することです。「事情」といえば、「事実関係+情」という意味になります。単なるファクトではなく、人情とか人間の気持ちに関する部分が「情」です。これを説明するのに、いちばんいい例が「情報」です。カタカナ英語でいえば、インフォメーションです。英単語のinformationは、データを報せる、という意味です。「情」という意味合いはありません。そもそも「情報」という漢字を作ったのは文豪「森鴎外」です。ドイツの軍事戦略家クラウゼビッツの「戦争論」を日本語に翻訳するとき、「報せる」には敵方の兵力(兵隊の数や武力の規模など)ばかりではなく、敵方の兵士のやる気はどうか、士気は高いのか低いのかまで報せる必要があるということで、報に「情」をつけたのです。現在では報せることを「情報」と呼び習わしていて、どうして「情」がくっついているのかだれも気づかなくなっております。

 

 つまり、マレーネ・ディートリッヒの役は「情婦」なのだとしたのでしょう。クリスティーヌは、歳上の妻であり、歳下の夫が殺人を犯したとわかっていたし、夫の証言が嘘であることを妻は知っていたのです。愛している夫を有罪から救おうとして、夫の言っていることは正しい、と嘘の証言をしたい。しかし妻の証言は証拠として採用されない。そこでアガサ・クリスティならぬクリスティーネは、自分は実は妻ではない、ドイツに本当の夫がいる、と重婚罪を覚悟して自分の証言を採用してもらえるようにした。しかし弁護側に立って証言したのでは、実質的な夫をかばっているのだろうと却下されるので、なんとここで、検察側の証人として登場し、夫の主張は嘘であると証言する(第一のどんでん返し)。どうみても夫の有罪は明らかだった。ところが、妻の証言は嘘だという情報が弁護士にもたらされる。妻が別の女性になりすまして、愛人がクリスティーネに奪われた、証拠の手紙があると言って、弁護士に売りつけた。翌日の法廷で、クリスティーネは嘘つきであり、夫の証言が嘘だというのが嘘であり、夫の証言は正しかったとして、無罪になってしまった(第二のどんでん返し)。夫は有頂天になってしまい、クリスティーネの前で若い愛人といちゃついてしまった。それを見たクリスティーネは愕然として、これほど愛する夫をかばってあげたのに、私を捨てるつもりだったのかと悟った。かわいさあまって憎さ百倍、夫を刺殺してしまった(第三のどんでん返し)。これを日本語では「悪女の深情け」といいます。「情婦」には、これほど深く哀しい意味があったのではないでしょうか。