お盆に里帰りできませんでした。亡き母の墓参りもできませんでした。それで代わりに鎌倉の浄妙寺にある原節子の墓参りをしてきました。というと、原節子の墓はあそこにあるのですか、とびっくりするかと思いますけれども、実は原節子の墓がどこにあるかはいまでも明かされておりません。亡くなったのは2015年9月5日ですが、マスコミが嗅ぎつけたのはそれから一ヶ月後であり、亡くなったことが確認されただけでした。どこに墓があるのかは一切不明です。 

 

 どこに眠っているのか、戒名はなにか、なにもわかりません。それではあまりにもかわいそうなので、私が勝手に、「光雲院慈眼悲心浄蓮大姉」とつけてあげました。お寺の坊さんに戒名をつけてもらうと一文字いくらですが、私の場合はお金をいただきませんので、十一文字もつけてあげました。映画界にいながら、金のことしか考えない欲望の渦の映画界を阿弥陀如来のごとき厳しい目で睨みつけ、原節子を愛してくれた国民を観音菩薩のような優しい心で見つめた、まるで泥沼に咲く清浄な蓮のような女性でした、という意味をこめました。

 

 原節子は、映画界におさらばしてから、鎌倉の浄妙寺のすぐ隣に住んでおりました。そこは原節子の姉の夫であり、原節子を映画界に引っ張りこんだ映画監督の義兄・熊谷久虎の敷地です。原節子はそこに別途に家を建ててずっと暮らしていたのです。41歳(1961年)で引退してから間もなく、95歳(2015年9月5日)で亡くなるまでずっと住んでおりました。義兄が亡くなり、翌年にその妻である姉が亡くなり、家の隣にある浄妙寺に墓が建てられました。そのころは原節子が熊谷家の家計を切り盛りしていたようですから、墓を建てる資金を原節子が提供したことでしょう。その墓をお参りしてきたのです。

 

 浄妙寺の墓所はかなり広大で、普通のお墓は大理石のこじんまりしたものですが、熊谷久虎の墓は他を圧倒するくらい立派なのです。墓のある場所は、他より一段高い崖の下、敷地は二区画、墓石は大きな自然石に、一文字「無」と記してありました。墓石に向かって左側に石板の墓誌があり、熊谷久虎夫妻、久虎の両親と姉、若くして亡くなった息子の、それぞれの命日と年齢が書いてありました。ところが墓石の右側にも石板があり、そこにはなにも記されておりません。

 

 おかしいでしょう、墓に墓誌用の石板があり、そこになにも書かれていないなんて、と私は思いました。そう思った人はもう一人おります。「原節子の真実」(2016年、新潮社)の著者である石井妙子さんです。石井さんが、原節子(本名:会田昌江)が亡くなる三年前に出版された「原節子のすべて」(2012年、新潮ムック)に書いた“「永遠の処女」の悲しき真実”という評伝に、「原節子」という女優は亡くなり、ここに眠っているのだろう、だから墓誌板は無記名なのではないか、とポエムみたいな推察をしておりました。原節子がすでに亡くなっている現時点での私の考えでは、女優「原節子」も本人「会田昌江」もそこに眠っているはずです。

それはそうでしょう。姉夫婦の家の敷地にある別棟に五十年以上も住み、姉夫婦が亡くなり、その墓を作る費用を出してあげたことでしょうから、その墓に入るのは当然かもしれません。しかし実の姉といっしょの墓に入るとはいえ、熊谷家とは別ですから、墓誌は自分用に別途作っておいた、マスコミが騒ぐのはうっとうしいから、名前は書かないで、と姉の息子であり原節子の甥である熊谷久昭さんにお願いしたことでしょう。原節子の甥は言いつけどおりに墓を守ってきたのではないでしょう。

 

 熊谷家の墓には、他にも謎があります。墓誌の名前を列挙すると、死亡順に、吉武久之(22歳、1898~1920)、熊谷久九郎(67歳、1861~1928)、熊谷陽(15歳、1929~1944、久虎長男)、熊谷加壽(89歳、1871~1960)、熊谷久虎(83歳、1903~1986)、熊谷光代(80歳、1907~1987、原節子の姉)となっています。先頭にある吉武久之を除けば、すべて熊谷姓です。どうして別姓の人物が墓誌の筆頭なのか。当然のことながら、熊谷久虎の肉親だったことでしょう。久之という名前からして「久」の一字が共通です。ただ「ひさゆき」と読むと男性ですが、そうなると吉武家に養子に出されたのか。あるいは「くの」と読むと女性で、嫁にいったのか。石井妙子の著書によると、熊谷久虎には姉がいたということになっております。姉の「くの」は嫁にいったが、若くして亡くなり、嫁ぎ先の墓には入れてもらえず親元に返されていて、原節子が義兄・久虎の墓を建てるときに、両親や弟たちと家族いっしょにしてあげた、と考えるしかありません。姓について詳しい私の友人に、吉武姓はどこが多いのかと尋ねましたら、福沢諭吉の郷里でもあり、熊谷久虎の実家があった大分県中津市の周辺に多いということでした。久虎の姉は、地元の吉武家に嫁いだのでしょう。

 

 それからもう一つの疑問は、墓石です。どうして自然石なのか。周りが大理石の小さな墓ばかりなのに、とても目立っています。まるで校庭の片隅にある石碑のようです。どうしてわざわざ自然石なのか。そしてその石はどこの産地なのか。熊谷久虎は、実は、戦後になって、ひょっとしたら日本に共産主義革命が起こるのではないかと心配して、九州独立計画を立てたことがありました。閣僚名簿まで作っておりました。それほど九州に思い入れがあったとするならば、生まれ故郷の墓に入りたかったことでしょう。とはいえ、墓を守ってくれる親族のいない故郷に作るわけにもいかず、隣の浄妙寺に墓を建て、家族をいっしょにしてあげたい、せめて墓石だけでも故郷の石にしてあげたい、と原節子は考えたのではないでしょうか。そういう目で、中津市のことを調べてみましたら、近くの八面山(はちめんざん)にその墓石に似た石がごろごろありました。

原節子の墓は鎌倉の浄妙寺にきっとある、と私は確信しております。

 

以上、今年のお盆につらつらと考えた私の仮説です。

お彼岸になりましたら、無記名の墓誌板の前に白いバラの花を供えてあげようと思っております。