映画「青い山脈」は太平洋戦争直後の1949(昭和24)年に製作されました。主演は原節子で、役名は「島崎雪子」です。この名前は「ゆきこ」だとずっと信じてきたのですが、原作者の石坂洋次郎が原節子をモデルにして書いたということがわかり、ひょっとしたら「せつこ」と読むのではないかと思いあたりました。戦後に東京から地方都市に赴任してきた英語教師という役です。英語の教師というところに、軍部に命じられたらどんなことでもやってしまうという遅れた日本人に、アメリカ式の自由と民主主義を教えてやるんだ、という熱意が感じられます。その象徴としての「自由の女神」、美しくて強い意志をもったアメリカ的な女性を演じられるのは、当時の日本では、原節子しかいなかったということなのでしょう。作者はそのヒロインに原節子の名前からとって「雪子」とつけたのでしょう。とすると雪子の読みは「せつこ」となるのだろうか。しかし映画では「島崎先生」としか呼ばれておりませんので、「ゆきこ」なのか「せつこ」なのかはわかりません。

 

 実は、「島崎雪子(ゆきこ)」という女優がおりました。「青い山脈」の翌々年の映画「めし」(成瀬巳喜男監督、原節子・上原謙主演、1951年)に原節子の義理の姪という役で出ています。青春スターとして、原節子の役名「島崎雪子」を芸名としてもらったのです。こちらには「ゆきこ」とふりがながついております。そうはいっても石坂洋次郎は「せつこ」だと思っていたのかもしれません。

 

 日本人の名前は、つくづく難しいと思います。日本語の漢字には、読み方がいくつもあるという特徴があり、日本人は器用に使い分けているからです。運動会のマイクのテスト時に、「本日は晴天なり、今日もいい日だ、日曜日」と言っていた記憶はありませんか。この短い文に、「日」が5つも出てきますが、読み方はすべて違います。とはいえ名前の文字からでは「正しい」読み方を特定できないことがあるし、名前を聞いただけでは、文字がわからないことがよくあります。ずっと昔に「平林(ひらばやし)」という大学の友人がおり、「タイラバヤシかヒラリンか、イチハチジュウのトッキッキ」とからかっておりました。「せつこ」という名前にしても、「節子」なのか「雪子」なのか、あるいは「世津子、説子、摂子」なのかわかりません。

 

 漢字の本家である中国ではどうなっているでしょうか。まず、第一に、中国では漢字の読み方は一つしかありません。たとえば「日本」は、「リーペン」としか発音しません。ただし、読み方は、時代によって、また地域によって異なります。かつて元の時代には、「日本国」を「ジッポングォ」と発音していたため、マルコ・ポーロが「東方見聞録」で「ジパング」と西欧に紹介しました。これからJapanという英語名ができました。「本日」を日本人はだれでも「ほんじつ」と読み、「ペンリー」とは発音しません。また中国に行ってTVを観ていると、画面の下に漢字のテロップが流れていきます。中国人はしゃべるのがうるさいので、耳がよくないのかなと思っておりましたが、実は地域によって発音が違っていて通じないため、標準語が表示してあるのでした。共産党が決めた標準語を普及させ、国民の文盲率を下げようと必死なのでしょう。

 

 そんな漢字の読み方を現在ではアルファベットで表示しております。これなら、外国人にも漢字が難なく読めます。しかしアルファベットを知らなかった時代の中国人は漢字の読み方をどのように教えていたのでしょう。実は、表意文字の読み方を表意文字で表すというすばらしい方法を中国人は発明していたのです。日本語を初めて習うとき五十音表を教えられます。同じように現代の韓国語は母音と子音を組み合わせて一文字を作りますので、母音10個と子音14個を組み合わせた「反切表」というのをまず習います。五十音表も反切表も漢字の「反切」をまねたものなのです。反切はなにかというと、ある漢字の発音を表すために、だれでも知っている漢字の上の子音(反)と別の漢字の下半分の母音(切)を組み合わせて発音するという約束事がありました。

 

 以前に東京国立博物館で「遣唐使と唐の美術」展(2005年)が開催されたことがあります。そこには前年に、中国の古都・西安で発見された石版の墓誌が展示されており、日本人の遣唐使「井真成(せいしんせい)」の姓名、系譜、官歴、死亡年月日、死亡地点、死亡時の年齢、埋葬場所が記されていたのです。「姓は井、通称は真成、国は日本、才は生まれながらに優れ、命を受けて遠国に派遣され、よく勉強し、まだ途中なのに突然に死ぬとは…」とありました。阿倍仲麻呂や吉備真備といっしょに養老元(717)年に遣唐使として派遣され、現地で736年に36歳で亡くなった日本人の井真成という人物らしいことはわかっておりましたが、詳しいことは不明でした。それを聞いて私は思いました。「真成」は「まなり」という本名を中国読みしたものだろう。しかし日本語の姓は不明ですが二文字であり、中国にはそぐわないので、「井」と中国の姓らしく一文字を名乗ったのではないだろうか。それならどうして「井」なのか。ここで反切が登場します。「真」の音「Sin」の上の子音は「S」、「成」の音「Sei」の下の母音は「ei」です。これを合わせると「Sei」となり、しゃれて「井」と名乗ったのではないかと思った次第です。

 

 ところで石坂洋次郎が「島崎雪子」を「せつこ」と読ませたかったのなら、原作にふりがなをつけていたかもしれないと思い、図書館から「青い山脈」を借りてきてチェックしました。ふりがなはついておりませんでした。ということは、「雪子」の名前はだれもがふつうに読むものであり、やはり「ゆきこ」なのだと確定しました。