6月の初めに、街歩きの仲間と横浜のバラ園巡りをしてきました。

バラの見頃は5月中旬なので、盛りは過ぎておりましたが、

バラの作出のエピソードや、横浜開港当時の歴史散歩も目的でした。

横浜球場から大桟橋に向かう「日本大通り」の東側(山下公園から中華街にかけて)が外国人居留地の商業地区でしたが、元町を越えた山手地区が外国人居留地の住宅地区となっていました。

 

 午前は外国人居留地の商業地区を巡り、山下公園にある「未来のバラ園」などを散策して、中華街でランチをとり、それから山手に向かいました。中華街と中村川を挟んだ向かいに、元町があります。「元町」というのは、幕府が「関内」を埋め立てるために、横浜村に元からいた住民を中村川の外に追い出して住まわせた地区で、外国人相手に技術を学び商売をしていたところです。元町から山手に昇っていく坂がいくつかあり、そのなかのほぼ中央部にあるのが「汐汲坂」です。どうして汐汲坂と呼ばれたのかは諸説あります。おそらくずっと昔、いまの横浜がまだ海のなかだったころ、内陸部の人たちは海水を汲みにこの坂を上り下りしたことでしょう。海水をなんのために運んだのでしょうか。今の人達は、塩は買ってくるものと思っているかもしれませんが、当時は塩を作るのに人手と費用がかかりますから、それなりに高価でした。内陸部の貧しい農民は、野菜はあるけれども、塩を買うお金がないとなれば、必要なもの以外は、海水を利用していたことでしょう。たとえば、漬け物なんかは、塩があればそれに越したことはありませんが、そうでない人たちは、縄文時代からあったやり方で、海水から塩を作るまではいかなくとも、ある程度濃縮して漬け物に利用していたことでしょう。

 

 そのゆるい汐汲坂を少し上がったところに、「横浜学園付属元町幼稚園」があります。そこにはかつて、「横浜私立高等女学校(横浜高女)」がありました。1933年、原節子が13歳のときに入学して、一年間いたところです。原節子の父は生糸の輸出関係をしておりましたから、かなり裕福な家庭でした。保土ヶ谷の駅近くに住んでおり、節子は二男五女の末っ子でした。いちばん上の姉はもともと病身でした。関東大震災(1923年、節子3歳)のときに、母親が熱湯をかぶって寝たきりとなり、さらに世界大恐慌(1929年、節子9歳)が父の仕事を直撃したのです。

 

 原節子(本名:会田昌江)は、小学生の頃は成績が抜群に優秀で、県立横浜第一高等女学校(県立高女、現在の横浜平沼高校)に進学するつもりでした。当時の横浜にあった高等女学校は、勉強が得意な子は県立高女、家柄の良い子はフェリスか雙葉、そのどちらでもない子は横浜高女、といわれていたそうです。原節子の姉は二人ともフェリスという横浜一のお嬢さん学校に通っていましたが、原節子は公立学校にしか進むことができなくなっていました。県立第一高女にはやすやすと入学できると思われておりました。原節子は、学校の先生になることが夢でした。ところが入学試験の当日に熱が出てしまい、受験に失敗してしまいます。

 

 家は貧しくて、公立ならまだしも、私立にはとても無理な状況でした。それでも原節子は横浜高女の二次募集で入学します。たった一年しかおりませんでしたから、あまり記録は残っておりません。卒業していないので、卒業アルバムには写っておりませんし、空襲で校舎がほぼ全焼してしまい、戦前の記録は焼失してしまいました。しかし当時教員だった人がクラス名簿などを手帳に書きこんでおり、その手帳がずっと後年になって家の蔵から出てきたのです。原節子が入学した1933年の手帳には名簿の欄外に「会田昌代(会田昌江の誤記?)」とあり、二学期と三学期の成績が記入されていました。

 

 後に作家となった中島敦(1909年~1942年)がこの学校で教師をしていました。高校の国語教科書に登場する「山月記」(1942年)の作者としてご存じの方も多いと思います。中島敦も1933年に東京帝大の文学部を卒業して、横浜高女の教員となっています。国語と英語、地理と歴史を担当していて、原節子も授業を受けましたが、まだその他大勢の一人だったことでしょう。1941(昭和16)年に、喘息で体調を崩して休職し、そのまま退職してしまいました。暖かい南の島なら健康にいいのではないかと考えて、南洋庁に就職してパラオに赴任しますが、喘息どころかテング熱や大腸カタルといった病気、さらにはホームシック、島民に対する南洋庁の方針に疑問をいだき、仕事への情熱を失っていきました。1942年に職を辞して帰国、職業作家の道を歩きはじめましたが、その年の暮れに喘息の発作をこじらせてしまい、33年の生涯を閉じております。

 

 節子が入学したのと同じ1933年に、「渡辺はま子」が音大を卒業して、この学校で二年間、音楽担当の講師をしておりました。美人の渡辺はま子が汐汲坂を登ってくると、生徒たちは授業中でも窓に駆け寄り、「はま子先生!」と叫びながら、手を振っていたそうです。中島敦は、そんな生徒たちを抑えることはできない、といっしょに眺めていたとか。1934年の卒業アルバムには、渡辺はま子も写っており、ほかの女教師たちが羽織袴なのに、洋装でさっそうとしております。1934年の映画「百万人の合唱」に出演して、勤務先の横浜高女を休んだことで父兄からつきあげられてしまい、翌年には職を辞し、ビクターの専属歌手になりました。横浜生まれ横浜育ちのハマっ子の美貌の歌手としてヒットに恵まれますが、軍部からは「娼婦のような歌唱、娼婦歌謡だ」と非難されて歌手活動を禁止されたこともありました。それでもヒットをつづける渡辺はま子を快く思わなかった軍部は流行歌を「国民歌謡」として統制します。しかし渡辺はま子は国民歌謡でもヒットをとばし、「支那の夜」などでチャイナソングのおハマさんとして国民に支持されました。戦地への慰問に訪れていた天津で終戦を迎え、一年間の収容所生活を余儀なくされますが、その間も、日本人捕虜仲間を美声で慰めていたそうです。戦後も横浜の山手で花屋を営みながら、歌手活動をつづけておりました。

 

 山手の海岸寄りに、「港の見える丘公園」があります。1962年に作られた公園です。そこに「港が見える丘」の歌碑があります。

 

♪あなたと二人で来た丘は、港が見える丘

色褪せた桜唯一つ淋しく咲いていた

船の汽笛むせび泣けばチラリホラリと花片(はなびら)

あなたと私に降りかかる春の午後でした

 

 この歌は、戦争直後の1947(昭和22)年に大ヒットした東辰三作詞・作曲、平野愛子歌唱による歌謡曲でした。「港が見える丘」がどこかわかるような歌詞はありませんが、作詞・作曲した東辰三の出身地である神戸の歌として親しまれていたのに、どうして山手にこの歌碑があるのでしょう。実は、あの一帯は米軍基地だったのですが、返還されることになり、横浜市はどう利用していいか困っていたところ、市民から「港が見える丘」の歌にぴったりだから、公園にしたらどうかと投書があり、それで「港の見える丘公園」が作られ、開所式で渡辺はま子が歌ったということでした。こうしていつの間にか、横浜の歌になってしまった、というか横浜と神戸は姉妹都市になったということです。

 

 原節子は、横浜高女に通うとき、自分の行きたかった県立高女の生徒とすれ違うのが嫌だったそうですし、横浜高女のある汐汲坂のさらに上には、自分の姉たちが通ったフェリスがあり、やる気をなくしてしまったのかもしれません。二年生になって、退学することになりました。学校は、学費はなんとかすると説得したらしいのですが、やる気がなければ、学費の問題ではなかったのでしょう。原節子の二番目の姉は日活の女優であり、結婚した夫「熊谷久虎」は日活の監督でした。当時、日活は京都で時代劇専門の映画会社でしたが、東京で現代劇を始めることになり、熊谷夫妻は東京に移ってきて、カメラマンとして節子の兄を、女優として節子をスカウトします。原節子のデビュー映画は「ためらう勿かれ若人よ」(1935年)です。文房具屋の「お節ちゃん」という憧れのマドンナ役でした。そこから芸名が「原節子」にされたのでした。そしてここから「原節子」の女優人生がスタートしたのです。1933年に、奇しくも、汐汲坂に中島敦、渡辺はま子、原節子が集まり、そして間もなく、それぞれの夢をもって散らばっていったのでした。

 

 原節子は戦後、映画[青い山脈](1949年)で、高等女学校の英語の先生役となり、生徒たちにしっかりと、「家のため国家のためということで、個々の人格を束縛して無理やりに一つの型にはめこもうとする…日本人のこれまでの暮らし方でいちばん間違っていたことです」と強く諭しています。原節子が子どものころに夢見ていた先生がこの映画で実現していたのではないでしょうか。小説「青い山脈」は石坂洋次郎が原節子をイメージして小説を書いており、映画化にあたっては原節子をヒロインにというのが条件でした。先生の名は「島崎雪子」です。「節子」から雪のように純粋で、すべてを白く覆い尽くす、存在感のある「自由の女神」をイメージしていたことでしょう。

 

 今回は、バラ園巡りでしたので、バラについて一言。バラには、香りや色、花の形や樹形などがさまざまであり、品種も無数にあり、ちょっと敷居が高そうですが、ガイドの話を伺っているとイメージに合わせたバラが園芸家によって作出されているのだそうです。なので「ハラセツコ」という名のバラを作ることも可能なようです。原節子は白いバラが好きだったらしい。清潔で、ちょっと淋しいところが好きなのだそうです。香りはあんまり強くないのがいいかもしれません。こんなイメージのバラをカタログで探してみると、「セツコ」というのがありました。花はシンプルに巻いており、剣先であり、白くて花弁の先がちょっとピンクになっています。また「鎌倉」というバラも似ておりますが、黄色い花です。私のイメージとしては、「鎌倉」の花弁を白くしたものを「ハラセツコ」と命名したいと思っております。みなさんも、自分の好きなバラをイメージして見て歩くと楽しめます。