原節子は私にとっての「永遠のベアトリーチェ」か、というと、そうではありません。

ベアトリーチェは、あの「神曲」を書いたダンテが若い頃に一目惚れしたものの、愛を打ち明けられずにいるまに、若くして亡くなってしまった女性です。イタリア人にも内気な人はいたんですね。しかしダンテは、ベアトリーチェへの思いを胸に、哲学を勉強し、「神曲」を書き、エデンの園で再会したらしい。

私は「神曲」を読んだことがないのでわかりませんが、再会したベアトリーチェから、生きているときには美しい姿に恋い焦がれていただけで、亡くなると私を忘れて、現世のものに惹かれた、と激しく責められ、ベアトリーチェへの愛から目を逸らせたことを深く反省しているという内容らしい。

「神曲」は難しい話かと思っていましたが、悲恋の果に、地獄まで想像してしまう、というとてもイタリア人らしいものらしいので、機会があったら読んでみたいと思います。

 

 

 私の母は数年前に94歳で亡くなりました。

原節子の3年ほど下でした。原節子も、2015年に95歳で亡くなっておりますから、ほぼ同じくらいの年齢で亡くなりました。

もちろん、母と原節子はまるっきり違う人生を歩みました。

しかし、私のなかでは、女性としてどこか似ているところがあるのです。

 

 まだ親が健在の方もいらっしゃるかと存じますが、多くのみなさんも母親の記憶がまだしっかりあると思います。

私の母は、女学校を出てすぐに結婚して、満州の開拓に向かいました。

なにごともなければ、満州で裕福な暮らしができていたのかもしれませんが、太平洋戦争に負けて、着のみ着のまま、3才と生まれたばかりの男の子をつれて、引き揚げてきました。

私は日本で生まれましたが、父は飲んだくれてしまい、なかなか苦しい生活だったようです。そんな女性が家のなかで女王様として生きていければ幸せだったでしょうけれども、一旦外へ働きに出れば、大変な時代でした。なんの学歴も技能もない女性が、生きていくのは並大抵のことではなかった。

私が高校生だったころ、成績が良かったこともあるのですが、授業参観に母親が着物姿でやってくるのです。こちらは思春期ですから、恥ずかしいことこのうえないのですが、母はそんなことは気にしません。ただ一つ良かったことは、男性の先生が私に優しくしてくれたことでした。なので、母は若い頃にさんざん苦労したのだから、それくらいはいいか、と私は知らんぷりをしていました。

そんな母ですけれども、後年になって私は気づいたことがありました。自分の苦しかった人生は戦争のせいだと一言もいったことがなかった。心のなかでどう思っていたかは知りません。

娘と息子では、母親への感情は違うと思いますが、私は強い気持ちをもって生きた母が、原節子の人生に重なってしまうのです。

 

 原節子は多くの監督の作品に出演して、国民の大人気でしたけれども、多くの監督から大根役者だといわれてきました。たいていの女優ならめげてしまうと思いますが、原節子は、「私ほど大根といわれた女優はいない」とか、「どうせ私は大根だから」と悔しくもあったでしょうが、平気で言うところがすごかった。

 

 戦後すぐに、黒澤明監督は「わが青春に悔いなし」(1946年)で、吉村公三郎監督は「安城家の舞踏会」(1946年)で、今井正監督は「青い山脈」(1949年)で、原節子をヒロインにしたおかげで大成功を収めながら、原節子を褒めることをせず、不満などを口にしていた。黒澤は「まだ俳優の根性みたいなものができていない」とか、吉村は「原節子の演技は評判もよく無難であったが、私にはまだまだ愛せない」とか、今井に至っては、「原節子は、役の人物になりきって演技しているのではなく、役の人物らしくふるまっているにすぎない」とか、言いたい放題でした。

 

 しかし国民が原節子主演の映画を観にいったのは、原節子の演技ではなく、「原節子」を観にいっただけなのです。そんなことを映画監督として絶対に認めたくない気持ちはわかりますけれども、原節子のおかげで「名監督」と言われているのに、もう少し謙虚であってもよかったろうと思います。

 

 「青い山脈」は原作の石坂洋次郎が原節子をイメージして小説を書いており、映画化にあたっては原節子をヒロインにというのが条件だったのです。原節子は演技するまでもなく、脚本に従って思うままにしゃべり、動くだけでよかったのです。敗戦で腑抜けになってしまった国民はそれで勇気づけられたのです。だれも原節子に嘘っぽい演技など求めていなかったのです。原節子そのものが女優だったのです。

 

 寅さん映画「男はつらいよ」を観ている観客は、渥美清の演技を観ているのではなく、「寅さん」を観ていたでしょう。それと同じように、「原節子」の立ち居振る舞いがそのまま女優だったのです。

 

小津安二郎監督も、原節子をヒロインにして、名監督となっていきました。小津監督だけは、原節子が大根役者だとは言っておりません。演技指導もせず、自由に演じさせたようです。しかし小津といえば、役者に事細かに注文を出し、設定された役柄を役者が演じられるようになるまで、何度でもダメ出しすることで知られておりました。

 

 小津監督の最後の作品「秋刀魚の味」(1962年、岩下志麻主演)では、結婚してもいいかなと思っている男性が、別の女性と結婚するとわかったとき、自分の部屋で細長いリボンを巻くシーンがあります。親たちには何でもない、と強がりは言ったけれども、内心の悔しさを、リボンを指に巻く仕草で表現しなければならない。しかし岩下志麻が何度やっても小津はOKを出さない。百回やったそうです。きっと「演技」では嘘くさくて、観客は悔しさや悲しさや、やるせなさや、いろんなものを感じとってくれないだろうと小津監督は思っていたのでしょう。岩下志麻はもうなにがなんだかわからなくなり、演技する気力もなくなり、やけくそになってリボンを巻いたときに、ようやく合格したのでしょう。そうなるまで、百回巻かせた小津監督が偉いのか、わけがわからず百回巻いた岩下志麻が偉いのか。今の時代なら、ちゃんと教えてください、教えてくれないのはパワハラ、セクハラと文句を言われて、監督のほうがクビになることでしょう。

 

 小津監督が原節子を最初にヒロインにして撮った映画が「晩春」(1949年)でした。原節子にとって「青い山脈」につづいてのヒロインです。小津監督と原節子の初顔合わせのとき、原節子が「先生がテストを三十回も四十回もするというのは本当ですか」と訊いたそうです。すると小津は、「あなたがビールを二十本も三十本ものむと言われているのと同じですよ」と切り替えしたそうです。原節子はこのころすでにビール好きで有名みたいだったのですね。

 

 どうして小津監督は原節子に演技指導をしなかったのか。「晩春」という映画はそもそも原節子をイメージして脚本が作られておりました。まず、演技する必要などなかった。それならどうして小津は原節子をイメージして原節子主演の映画を撮ったのか。実は明言しておりませんので、真相はわかりません。推測していくしかありません。

 

 原節子は14歳で映画界に入ります。まだ15歳になったばかりの原節子を、日活の山中監督が、会社の反対にもかかわらず、自分の映画「河内山宗俊」(1936年)のヒロインに起用します。当時の日活の女優すべてを調べて、大抜擢したのです。この映画がすごい。原節子が弟の不始末で女郎に身売りされることになりました。原節子は悲しくて、じっとうなだれています。そのときに、なんと、いきなり雪が降ってくるのです。しんしんと降ってくる雪に観客は原節子の悲しみの重苦しい深さを感じとったのです。なんという演出でしょう。このシーンを観ていて、山中監督は原節子に惚れたな、と思いました。

 

 原節子はその後、この映画がきっかけとなって、日独合作映画「新しき土」(1937年)のヒロインに抜擢されて国際女優となっていきますが、山中監督は魂が抜けてしまいました。その後、「人情紙風船」(1937年)を撮ってから、兵隊にとられて中国にいき、一年後に現地で病気になって亡くなってしまいます。その少し前に、同じく中国に行っていた親友の小津と出会い、映画談義をして東京での再会を誓い別れました。山中の訃報を聞いた小津の悲しみ嘆き悔しさはどれほどのものだったか。記録などどこにもありませんが、原節子をヒロインにした映画を撮りたいという山中の夢を聞かされたことでしょう。小津監督が戦後、原節子をヒロインにして映画を撮りたいというのは、山中監督への鎮魂だったのでしょう。原節子に惚れた山中の心を映像にしたのではないでしょうか。

 

山中監督が惚れた原節子を小津監督が映画にしたのだな、という目でこの映画を観ていただきたいと思っております。