アメリカの映画はどうしてハッピーエンドで終わるのかという疑問がありました。
「ショーシャンクの空に」でも、
監獄で長いあいだの苦労の末に、
いきなり脱獄に成功し、メキシコに逃亡し、
青い太平洋を見ながら静かに暮らし、
監獄での恩人が仮釈放されて、再会するというところで終わるります。
アメリカには、ハッピーエンドで終わらなければならないという不文律があるのか、アメリカ人には、余韻を楽しむところがないのか、という疑問でした。
これは、欧米の映画を観るときの基本ですが、
オペラやミュージカル、そして映画はハッピーエンドで終わるという決まりがあるのです。
決まりといっても、法律があるわけではなくて、それこそ不文律です。アメリカに限ったことではありません。
オペラ「フィガロの結婚」でも、フィガロと結婚相手、伯爵とその夫人のあいだで、色恋をめぐるドタバタ劇がくり返されていき、最後に伯爵が二人の女性に謝り、ハッピーエンドとなって幕となります。
ハッピーエンドは欧米演劇界のお約束事なのです。
かつてのオペラというのは、貴族階級の娯楽なわけです。
オペラが終わってから、食事をしながら演劇話で盛り上がろうとしているのですから、ともかくハッピーエンドにしなければならなかったようです。話の展開上、どうしても悲劇的になりそうな場合でも、ハッピーエンドで終わらせます。
この点で有名な話としては、みなさんもご存知かもしれませんが、
「三文オペラ」のオリジナルの「ベガーズ・オペラ」あるいは「乞食オペラ」があります。主役の男はいろいろあって、絞首刑になります。これで終わってしまっては、ルール違反となってしまいます。
それで、いきなり女王陛下の戴冠式があり、男は恩赦で釈放されることになり、ハッピーエンドで幕となります。
例えていえば、落語の「落ち」みたいなものでしょうか。
「落ち」あるいは「下げ」にもいろいろあって、落ちに向かっていろいろ仕込んでおいて終わらせる「仕込み落ち」、ダジャレで終わる「地口落ち」、決め台詞でいきなり終わる「とたん落ち」など、落語にはいろんな落ちパターンがあります。
映画「ショーシャンクの空に」は、監獄での苦労は脱獄という落ちに向けた「仕込み落ち」とハッピーエンドの「とたん落ち」の組み合わせといったところでしょうか。
ハッピーエンドが演劇の基本とはいっても、実はなにが「ハッピー」なのかという問題があります。国や文化によっても異なります。
アメリカ映画の場合は、野球帽をかぶった親子がホットドックを食べながら帰っていく、といったイメージがありますね。深刻な終わり方は嫌われます。
ヨーロッパ映画はどちらかというと、跡を引くような終わり方が好まれるようです。映画の会で上映したことのある「ニュー・シネマ・パラダイス」なんかは、中年の男性が別れた初恋の女性と再会し、お互いの行違いを語り合い、その後、男がしみじみと思いにふける、というものでした。
日本の歌舞伎でおなじみの「忠臣蔵」は、忠臣たちが苦労に苦労を重ねて、ついに主君の仇を討ち、これでお家の再興も叶うと喜んだのに、国の秩序を乱したとして切腹を命じられて果ててしまいます。これって、ハッピーエンド?忠臣にしてみれば、悲劇ですけれども、歌舞伎の観客にはハッピーエンドなのです。わかりにくいかもしれませんが、罪人として打首ではなく、武士として切腹できるというのは、名誉なことだったのです。観ている観客は腹が痛いわけではないし、涙とともにこころも清められるからです。
江戸時代には、「忠臣蔵」と同時に「四谷怪談」という演目もありました。こちらは、女房のお岩に浪人の夫・伊右衛門が毒を飲ませて殺し、幽霊となって復讐するという筋立てです。実はこの伊右衛門という浪人は赤穂藩の家来だったのですが、主君の仇を討つことから脱落して浪人暮らし、欲に目がくらんだ末のことでした。こちらは、地獄に落ちるぞ、というわけですから、観客はザマーミロと言ってすっきりするというものでした。「忠臣蔵」と「四谷怪談」を合わせて観ていると、「忠臣蔵」はハッピーエンドだったということになります。