映画「白い巨塔」を何年ぶりかで観ました。初めて観たのはずっと昔でしたが、田宮二郎はまるでヤクザ映画の高倉健、つまり巨悪に歯向かう「正義のヤクザ」のようなカッコよさを感じ、しかし結局は破滅していく苦悩に共感したものでした。しかし今回は少し違う感じを受けました。一言でいうと怖いという感じでした。財前五郎(田宮二郎)は、教授選考が進むにつれて、医術について自信にあふれた新進気鋭の助教授から、疑い深く、いじめに対して恨みを抱いているような歪んだ顔になっていきます。以前に観たときは、演技なのだろう、シナリオに応じて役作りをしていただけだろうと思っておりました。今回はそうではなくて、その役になりきってしまったような感じでした。役を演じているのではなく、役にとり憑かれてしまったような感じがしたのです。

 

 どうしてそんなことを思ったかというと、今回の参議院選挙の投票日直前に安倍元総理が銃殺される事件が発生しました。私はその直後から、その関連のニュースをチェックしていました。だんだんと事件の詳細がわかってきて、犯人の映像が出てくるようになったのですが、不思議に思ったのです。安倍元総理が演説している背後に犯人が立っている映像を見ていて思ったのですが、犯人はボーっとした表情なのです。これから人を殺します、といった緊張感とか、安倍元総理への憎しみの感情とが感じられないのです。ただ、選挙の演説というと、観衆は演者の前に立っているのが普通なのに、どうして後ろに、というのが奇妙ではありました。

 

 通常の場合、犯人は観衆にまぎれるので、前から襲いかかるというのが常識です。警備を担当していた奈良県警やSPも全員が前を向いて立っています。どうして犯人が後ろから接近していることに気づかなかったのかとマスコミに叩かれておりますが、警察だって人の子ですから、だれも襲われるとは思ってもいないし、まして後ろから襲って来るとも思っていなかった。犯人もボケーっとした顔で立っていたし、警備員もそれ以上にボケーっと立っていたのでしょう。警備員もボケーっとしていたとどうしてわかるかというと、一発目の銃声がして、弾が外れてしまい、それから3秒弱後に撃たれた銃弾が致命傷になるのですが、その間、警備が無反応だったからです。前から襲ってくると思っているのですから、至近距離の後ろから銃声がしても、やっぱり前にいるはずの犯人を探すでしょう。犯人が前に立っていたら、即座に防御動作に移れたでしょうが、前には犯人がいなかった。キョロキョロ探してしまいます。これが警備の「三秒ポケー」の理由なのではないでしょうか。これぐらいは奈良県警だってわかっているはずですから、これから真相が明らかになるか、隠されるかわかりませんが、おそらく総懺悔してうやむやにされるのかな。

 

 今回の事件の極めて重要な特徴は、犯人が無表情だったということです。コロナの最中の選挙演説なので、怪しいやつはみんなマスクをつけますから、警備は大変だったはずです。これからの警備は犯人の表情だけから怪しいものを見つけるという幼稚なやりかたではもう無理だということでしょう。ボーっと立っているようなのに、目だけがキョロキョロしているとかを検知する精密監視とか、そもそも観衆なににどうして後ろに立ってるのとか、選挙演説だと高齢者が動員されて来ているはずなのに、どうして若者がボーっと立ってるの、ということに気づく知能監視とかが必要となります。

 

 余談が長くなってしまいましたが、映画「白い巨塔」の田宮二郎の場合は、心が顔の表情に露骨に出ておったなと、映画を見ていて感じたのです。映画の後、クレオールで感想会をしていたとき、田宮二郎はテレビ・ドラマ「白い巨塔」の最終回放送直前に自殺したんだよね、と話題になりました。確かにそんな事件がありました。映画は原作小説「白い巨塔」の前半だけでしたが、テレビでは後半もドラマ化されております。前半は「白い巨塔」に昇ったというものですが、後半はその「白い巨塔」から転がり落ちていくというストーリーでした。そんな役が俳優に憑依したらどうなるのでしょう。やっぱり死ななければならなくなったのでしょうか。自殺の真相はわかりませんけれども、長い下積みの俳優があるときに脚光を浴び、役者として虚飾の成功と実業の成功との区別がつかなくなり、実業に手を出して失敗し、歯車の回転がどんどん狂っていったのでしょう。ある映画で、猟銃を使って自殺するというシーンがあり、田宮二郎は俺ならもっとうまくやれると豪語していたらしい。きっと役者の「田宮二郎」が自殺の演技をしただけだったような気がします。