イタリア映画「道」を観て、ちょっと違和感をもちました。イタリア映画はあまり観ていなくて、有名なところでは「ひまわり」(1970年)、「ニュー・シネマ・パラダイス」(1988年)くらいかな。イタリア女性はたくましくて、「ひまわり」では、夫を探しにはるばるロシアまで行ったのに、夫が別の女性といっしょだとわかると一挙に熱が冷めてしまい、家に帰ると飾ってあった夫の写真を破り捨ててしまった。それを知った夫の母親がジョアンナ(ソフィア・ローレン)をひっぱたくシーンがあり、イタリアのママは強いと思いました。ジョアンナは別の男とさっさと結婚してしまった。ところが夫はジョアンナと会いに来て、またやり直そうと綿々と訴えても、現実にはジョアンナに子どもがいるし、自分もロシアに妻子がいるから、また悲しい別れをする。「ニュー・シネマ・パラダイス」でも、青年時代に惚れた女性と別れ別れになっていたのが、その女性と出会い、短い逢瀬を果たしてから、また別れるというものでした。主題曲は、「ひまわり」ではヘンリー・マンシーニの作曲、「ニュー・シネマ・パラダイス」ではエンニオ・モリコーネの、悲哀たっぷり愛のテーマでした。

 

 映画「道」の主題歌はニーノ・ロータの作曲で、哀しみがそのまま音楽になっているような気がしました。ただ「道」がほかのイタリア映画と違うのは、主演の男優が二枚目ではなく、女性に限りなく優しい男性でもなく、粗暴な男性だというところです。実は主演はメキシコ系アメリカ人なのです。どうしてイタリア語をしゃべれないアメリカ人が主演なわけ、というのが疑問でした。

 

 当時のイタリア映画では、映像と音声は同時ではなかったのです。ヒロインのジェルソミーナなどイタリア人の俳優はもちろんイタリア語でしゃべっていますが、男優の大道芸人ザンパノも綱渡り芸人のイル・マットも撮影時には英語でしゃべっていたのを、アフレコでイタリア語の音声を入れています。ですから俳優はイタリア人でなくても問題ないのです。とはいえ、イタリア映画なのにどうして男優はイタリア人ではないのか。イタリア人には女性に乱暴な男優がいなかったのかな、と思っています。

 

 コロナの初期のころ、イタリアで最初に蔓延しました。その理由は、社会的距離をとるようにと防疫対策が世界的に叫ばれても、イタリア人は週末に家族が集まって食事をする習慣があり、それが固い絆になっていたのが原因だったとされています。イタリアのママは強いのです。10年前の2012年に、クルーズ客船がチベタベッキアから出港して間もなく転覆した事故がありました。船長がこっそり乗せた恋人に自分の故郷の島を見せてあげたくて、沿岸に接近しすぎて座礁してしまったのが原因ですが、船から逃げだした船長が捕まったとき、ママに助けを求めました。船長にあきれたというよりも、イタリアのママの強さを感じたものでした。

 

 映画「道」のなかで、ザンパノがイル・マットを殴り殺すシーンがありました。なにげないシーンですが、イタリアで自殺する人はあまり多くはないのに、他殺事件は多いのです。自殺率は10万人当たりの自殺者数で、日本人が24人に対してイタリア人が7人です(2000年ころの統計)。逆に他殺率は日本で0.5人に対してイタリアは2.6人となっています。イタリア人が自分の生活を楽しんでいることがうかがえます。

 

 そしてイタリア人には家族の強いつながりがあります。アメリカでイタリア人移民の社会的ステータスが低いのは、アメリカに遅れてきたということもありますが、仕事よりも生活を楽しむ習慣、そして家族との繋がりが強い半面、個人としての独立心が低いというところがあるのではないでしょうか。ゴッドファーザーという組織の根底には、こんなイタリア人気質があるのでしょう。

 

 世界でいちばん「完璧」な法律をもっている国はイタリアです。イギリスには慣習法というのがあって、法律に明記されていない部分が多くあります。日本でも、法律の条文だけでは明確でないところがたくさんあります。しかしイタリアの法律は厳密で、曖昧さがないように事細かに記載されております。さすがにローマ法を作った国です。しかしローマの完璧な法律にもたった一つだけ欠点があります。それは法律を守る国民がいないということです。

 

 イタリア映画を楽しむには、日本人とはかなり違う文化をもっていることを頭に入れて観なくてはいけません。ただ音楽だけは演歌に通じるところがあるのかなと思います。