映画「バベットの晩餐会」(1987年)の原作は、一言でいうと大人の童話です。原作者はデンマーク人の女性カレン・ブリクセン(1885年~1962年)ですが、ペンネームはイサク・ディーネセンという男性名です。この作家の作品は、ダジャレと隠喩にあふれているようです。なにしろペンネームの「イサク」の意味は「夫が笑う」です。旧約聖書に出てくるアブラハムが100歳のとき、神から、おまえの妻サラは子を産むであろうと予言されたとき、アブラハムが笑って、それは無理、妻は90歳ですと答えましたが、予言どおり生まれたのが息子「イサク」だったのです。そのイサクをペンネームにしたのです。なお、アブラハムは一神教世界では、ノアの洪水後、神によって選ばれた最初の預言者とされています。

 

 原作者のもともとの名はカレン・ディーネセン、両親は富裕でしたが平民だったので、娘をブリクセン男爵という借金まみれの没落貴族と結婚させたのです。この男爵は妻の持参金を手にするとすぐにケニアでコーヒー園を開きました。しかし冒険好きの浮気者、農園の経営は妻にまかせっきり、おまけに妻に梅毒を移してしまい子どもが産めない体にしてしまった。結婚は当然に破綻。カレンは後にデンマークに帰り、49歳になって小説を初出版したという超遅咲きの作家でした。私が子どもを産めないと、あなたは笑うでしょうけれども、それはあなたのせいなのです、という恨みがペンネームにこめられている気がします。

 

 映画はバベットという名の家政婦の物語です。西欧の映画や小説のヒロインだったら、フランシーヌとかカトリーヌという名前が相場ですから、日本ではあまり売れません。おまけに、バベットという名は響きも良くないし、フランス語で「よだれかけ」という意味なのです。ただし、「バベット・ステーキ」となると、フランス人の大好きな料理です。牛の後ろ脚の付け根の奥にある、形が「よだれかけ」に似ている赤身の肉で、硬めですが、なんともいえない旨味があるのだそうです。バベットはパリのカフェ・アングレというレストランでシェフをしていました。1871年にパリ・コミューンという革命運動が起こったときの闘士でしたが、夫と子どもが殺され、映画の舞台であるデンマークの片田舎に亡命してきたのでした。お客だった声楽家のつてを頼り、かつてその声楽家の求婚を断わった女性に、面倒を見てくれるようにという依頼の手紙を持っていました。バベットはよそ者であり、初めのうちはだれからも警戒されますが、次第に受け入れられていきます。映画では最後に、バベットはお世話になった村人たちに料理を振る舞いたいと申し出ます。ということで、最高の料理を作るヒロインの名前を「バベット」としたのでしょう。

 

 美味しい料理に村人はだれもがうっとりとなってしまいますが、実は料理映画ではありません。バベットにとって料理は芸術だったのです。お世話になった人たちへの恩返しとして、渾身の思いをこめて作った芸術作品を堪能してもらいたかったのです。バベットが世話になった女性に言います、カフェ・アングレのお客さんたちは、私がどれほど優れた芸術家であるかを知っていました、私が最高の料理を出したとき、あの方々を最高に幸せにできました、芸術家が次善のもので喝采を受けるのは恐ろしいことです、あの声楽家が言いました、芸術家の心には悲願の叫びがある、最善を尽くさせてほしい、その機会を与えてほしいと。

 

 バベットを家政婦として世話してくれた女性が最後に、あなたは天使もうっとりさせるでしょう、と言います。「天使(Angel)」とカフェ・アングレ(Angle)は文字を入れ替えるアナグラムという言葉遊びになっているというオチがついています。

 

 デンマークの童話作家といえば、ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805年~1875年)が世界的に有名です。アンデルセンが子どもの童話とすれば、イサク・ディーネセンの作品は大人の童話かもしれません。童話というのは、語られているお話の背後に隠された意味があり、それが読者の想像力をかきたてます。