映画「俺たちに明日はない」(1967年)は、名作といわれ、日本でも大ヒットしました。1930年代前半にアメリカ中西部で銀行強盗や殺人をくり返した若者たち「ボニーとクライド」の逃避行と、最後には警察の銃弾を雨あられのごとくに浴びて殺害された事件が、後年になって映画化されたものです。当時、私は大学受験の勉強で、映画どころではなかったのですが、衝撃的な題名だけは印象に残っておりました。

 

 映画の原題は「Bonnie and Clyde」です。アメリカ人にはかなりショッキングな事件でしたから、これだけでわかるのでしょうが、これでは日本人にはピンとこないので、「俺たちに明日がない」とされました。まるで江戸時代中期の大阪で起こった、曽根崎新地の娼婦小春と天満の紙屋治兵衛が情死した事件を題材にして近松門左衛門が脚色した人形浄瑠璃は、「小春治兵衛」ではなくて、「心中天網島(てんのあみじま)」でした。情死した場所「網島」と「天網恢恢疎にして漏らさず」を合わせた題名でした。こちらは愛と義理による束縛が描かれております。日本もアメリカも女性名が男性名より先にくるようです。射殺されたのは1934年5月23日、クライドが25歳、ボニーはまだ23歳でした。

 

 「俺たちに明日はない」という映画の日本語題名は傑作とされております。「ボニーとクライド」では、単なる心中事件と思われかねませんので、個人の問題ではなくて、いかにも社会が悪いという感じをもたせる題名にされたのです。ここらへんにも日本の芝居の題名づけの伝統が生かされているように思います。西欧では「個人の責任」がまず問題になるのですが、日本では、ともかく社会が悪いというと、納得してもらえます。

 

 ただし、この題名は男性中心の時代を色濃く反映したものです。たしかにクライドは、どうしようもない悪党で、社会に対して強烈な恨みをもち、復讐しようとしていました。しかしボニーは、子どもの頃から詩や文学に興味をもち、想像力が豊かで学校の成績も優秀、将来は女優になる夢をもっていました。社会に恨みはなかったが、悪い男に狂ってしまい、道を踏み外してしまったということらしい。高校二年生のときに同級生のロイと交際するようになり、16歳を目前にしてロイと結婚した。しかしロイは家に寄りつかず、二年後の1929年には強盗で5年の実刑判決を受けてしまった。二人は二度と会うことはなかったが、婚姻は解消されておらず、またボニーが死亡した際には、ロイとの結婚指輪をはめており、右脚太腿の内側には「ボニー」と「ロイ」と書かれた二つハートがつながっているタトゥーが入っていたようです。ボニーとクライドはこの世で結婚はできなかったのです。ボニーは「明日はない」とは思っていなかった、できるなら平穏に生きていたかったと思っていたようです。ですから、この映画を観るときは、この男女の意識の微妙なズレに注意する必要があります。

 

 当時は大恐慌の直後であり、空前の大不況でした。失業率は25%にもなっていた。当時の人々はお先真っ暗な状況のなかで、仕事がなく、いつ仕事がなくなるかわからない不安や絶望にさいなまれ、社会への不信や恨みがあふれていたのです。

 

 しかも当時は、第一次世界大戦後の1920年から1933年までつづく禁酒法の時代でした。泥酔を悪とするキリスト教的理念はすばらしかったのですが、街には密造酒があふれかえり、酒の消費量は禁酒法以前より増えてしまった。法律で禁止されても、民主主義国家ですから、当然のように裏社会にチャンス到来して、密造酒の製造から販売を牛耳っていたギャング団に莫大な利益が転がりこんできたのです。有名なアル・カポネ一家はそんな資金を使い、警察官や議会を買収し、マスコミも配下に置き、権力も握ったのです。貧しい人には、街の食材店から脅しとった食事を無料で配り、彼の評判は上々でした。まるでアメリカ版水滸伝でした。金と権力と暴力をもったギャングにマスコミはなにも書けなかった。そんな社会に国民は不満をもっていたが、なにもできなかった。

 

 そんなときに、さっそうと現れたのが、ねずみ小僧ならぬ、「ボニーとクライド」だったのです。金持ちの象徴である銀行から強盗する、警察の追跡をかわして逃げ回る。その手法は、加速に優れた最新式の車であっという間に州境を越えて逃げ切ってしまうというカッコよさ。しかも若い男女のカップル。ボニーとクライドは1932年に発売されたばかりのフォードV8を乗りまわしていました。強力なV型8気筒エンジンを搭載していたが、たいていは盗んだものだった。当時の大衆車のなかでは、最高の速度と加速力があり、警察のパトカーでは追いつけなかったらしい。

 

 しかし、ついに年貢を納めるときがきました。警察の懸命な捜査で、強盗団の行動パターンが判明したのです。周到な計画で、強盗をやっては州を越えて逃亡すること、ときには家族を訪ねていることがわかってきたのです。五人のギャング団は、ちゃんとしたホテルに泊まれるわけもなく、キャンプ場での寝泊まりや川で入浴をするしかなくなり、次第に仲間割れを起こすようになり、家族や知り合いのところでなんとかくつろいでいたのです。そして1934年5月23日、待ち伏せしていた警官隊に、乗っている車ごと銃の集中砲火を浴び、クライドは即死、ボニーはそれを見て悲鳴をあげたが、すぐに射殺されてしまったのです。「死のバレエ」と呼ばれるこのシーンが映画のクライマックスです。

 

 ボニーとクライドは正式の夫婦ではなく、親の反対もあり、別々の墓に葬られました。クライドの墓には「亡くなっても忘れはしない」と刻まれています。ボニーの墓には、「花が太陽の光と露によって、より甘美となるように、この古めかしい世界は、あなたのような人たちの命によって、より輝くのです」と刻まれています。

 

 それが30年以上経った1967年に、どうして映画になったのか。1950年代のアメリカは「赤狩り」という名の魔女狩りに狂奔していました。証拠があろうとなかろうが、「赤」だと名指しされると、社会的に抹殺されました。自分が名指しされる前に、他人を名指しなければ生きていけない。そんなヒステリックな社会だったのです。ハリウッドからも、多くの俳優やスタッフが追放されました。ようやく狂気から覚めたとき、アメリカが「自由の国」ではなかったことに気づいたのです。そして、ベトナム戦争が始まっていました。正義の戦争だったはずなのに、長期化と泥沼化していくにつれ、国民の厭戦気分が漂い始め、自由と正義の国という誇りが崩れていったのです。そんな時代に国民は、体制に反旗を翻したボニーとクライドに共感し、二人の刹那的な衝動を理解し、自分たちの将来への絶望感と無力感をボニートクライドに投影させたのでした。そしてこの映画をきっかけにして、ハッピーエンドでない映画、アンチ・ヒーローの映画の時代に入っていったのです。