映画「三人の妻への手紙」(1949年)は初めて観る作品ですし、コメディみたいなので、解説するのはちょっと難しい。三人の男たちの憧れのマドンナだった女性アディから、男性の若い妻たちへ一通の手紙がとどけられます。アディは妻たちとも友人です。手紙の内容は、三人のご主人のだれかと駆け落ちして町から出ていくというものなのですが、妻たちはこれからボランティアで子どもたちと遊覧船でピクニックに出かける直前です。真実を確かめたくても、どうにもならない状況に置かれてしまいます。自分の夫を信じたいけれども疑念もある。船に乗っているあいだ、それぞれの妻は平静を装いながら、自分のこと、夫のこと、夫婦のこと、アディと駆け落ちするのは自分の夫かもしれない思えば思い当たる節もある、とあれこれ思い悩むというストーリーなのですが、様々な思いでお互いの腹を探ろうとするコメディです。おそらく、観客をクスクス・ハラハラ・ドキドキさせて、結局はハッピーエンドで終わらせるというオチなのかもしれません。

 

 原作はジョン・プレンクナー「五人の妻への手紙」(1945年)ですが、映画では話をわかりやすくするため、三人の妻に変更されております。妻たちの数が三というのが重要です。本当にだれかの夫と駆け落ちするつもりなら、こっそりやるのがあたりまえなのですから、三人の妻に手紙を出したということは、アディにはなんらかの魂胆があるはずなのです。アディの魂胆はなにか、と考えながら観るのがおもしろいかもしれません。アディはかつてマドンナとされ、自分に憧れていた男どもがそれぞれ若い妻と結婚して幸せな家庭をもち、三組の夫婦も楽しくおつき合いしている、ということに嫉妬して、三人の妻たちが仲良くしているのをいがみ合わせて楽しもうという魂胆なのかもしれない。コメディの脚本家なら、駆け落ちの相手は決まっているけれども、妻たちに悲喜こもごもの駆け引きをさせて、観客を楽しませたい、という魂胆かもしれません。

 

 そもそも妻が一人だけだったら、アディは自分の夫と駆け落ちするはずですから、アディと夫への怒りが先に立ち、思い悩むことはなく、落ちこんでしまうだけで、コメディにはならない。妻が二人いると、どちらかの夫と駆け落ちすることになり、自分の夫だとすると別の妻が憎たらしくなり、別の夫とだとその妻を憐れみたいけれども、どっちつかずで、二人の妻はいがみ合いになってしまい、これもコメディにはなりません。ところが三人の妻となると、関係が複雑になり、コメディになりやすいのです。駆け落ちするのが自分の夫でないとしても、残る二人の夫のどちらかわからず、優劣がつけられなくなるし、自分の夫かもしれないと悩むことになります。これを私は「三体問題」と呼んでおります。太陽と地球、地球と月とかのような「二体問題」ですと、どちらかが相手の周りを回って、安定な関係が保たれます。夫婦の関係も「二体問題」です。どちらが太陽で、どちらが地球か、夫が妻の尻に敷かれるか、あるいは亭主関白で妻が夫に従うか、という問題はありますけれども、いずれにしても安定した夫婦関係となります。ところがそこに別の男性なり女性なりが加わると、いわゆる「三角関係」となってしまい、泥沼となり、当事者には悲劇的ですけれども、他人から見ると喜劇的になります。

 

 ということで、三人の妻たちは、悲喜劇を演じることになる予感がします。この映画では、リタとジョージ夫妻のメイドあるサディが重要な役回りをするらしい。この役者は、セルマ・リッターです。2020年8月に上映した「イヴの総て」(1950年)では、アカデミー賞助演女優賞をもらっており、ヒチコックの「裏窓」(1954年)では看護婦役をやり、個性的な端役を演じるようになります。この映画では、どんな演技を見せてくれるか楽しみです。また、映画には声しか出ないアディとメイドのサディが似た名前であることにも、なんらかの意味があるのかもしれません。アディの魂胆を助ける役回りを演じるのでしょうか。

 

 ところでこの映画の主人公はだれでしょう。やっぱりアディだろうと思います。声だけの出演で、本人がスクリーンに出てこない主人公なんてありなんでしょうか。以前に上映した邦画「泥の河」(1981年)には、加賀まりこ(キネマ旬報助演女優賞)が妖艶な姿で一瞬出てきました。このシーンだけであの映画は輝いていたと思います。「三人の妻たちの手紙」でも、アディを一瞬スクリーンに出す演出はできなかったものでしょうか。私が監督だったら、ヴィヴィアン・リー(「風と共に去りぬ」(1939年、スカーレット役)、「欲望という名の電車」(1951年、ブランチ役))を最後に一瞬だけでも出してあげたかった。夫婦が元の鞘に収まってよかったわね、とにっこり笑って、エンドマークにしてあげたかったです。