チャップリンの映画「街の灯」はこれまで何度も観てきましたが、やっぱりいい映画でした。同じところで笑い、同じところでほろりと涙が出てきました。いい映画は何度観ていても、また観たくなります。私は仕事をしていたころは、小説を読まないし、映画も観ないことにしていました。それでも、小説では井上ひさしと宮部みゆきだけは読んでいましたし、映画もヒッチコックとチャップリンと寅さんだけはテレビで放送されると欠かさず観ておりました。チャップリン映画はほぼすべて、観る機会があればなんでも観ておりました。古いものでは大正時代の無声映画短編などもあります。一遍が20分ぐらいの短い喜劇です。日本で初めて「チャップリン」の名前が活字として登場したのが1916(大正5)年でしたが、日本人は「チャップリン」ではなくて、「変凹(へんぺこ)君」とか「アルコール先生」とか呼ばれておりました。なにしろ、へんてこな格好をして、酔っぱらいの演技があまりにもうまかった。「街の灯」でも酔っぱらいのシーンがふんだんにありました。ボクシングなど、若いころに作った短編のギャクに磨きをかけて集大成した作品でした。

 

 今回は、また「街の灯」を観るにあたって、ずっと疑問に思っていたことを確認しようと思いました。その疑問というのは、この映画の題名がどうして「街の灯」なのかです。チャップリンの映画というのは、有名なところでは、「キッド」(1921年)は自分の子供時代をおもしろおかしく映画にしたものですし、「黄金狂時代」(1925年)はアラスカで金鉱が発見されて、それに群がる人たちのドタバタ喜劇ですし、「モダン・タイムズ」は産業の機械化によって機械に使われる労働者をおかしく描いたものであるし、「独裁者」(1040年)はヒトラーを茶化して戦争をやめろと訴えるものでしたし、「殺人狂時代」(1947年)は一人を殺せば殺人だが、多くの人間を殺せば英雄になると戦争を批判し、アメリカが広島・長崎に原水爆を落としたことを批判してアメリカから追放されることになった作品です。どれも題名と主題が一致していて、題名を聞いただけで作品を思い出せます。しかし「街の灯」だけは、どうしても題名と内容が一致しないのです。

 

 映画の冒頭に題名「City Lights」が電球で灯っておりました。夜に川のそばで大金持ちが自殺しようとするシーンでは、街灯が点いておりました。あとはこれといって「街灯」が目につくシーンはありません。ですから「街灯」が重要な意味をもっている映画ではなさそうです。それなら「街の灯」はなにを意味するのか。映画のなかで説明されてはおりませんし、チャップリン映画の専門家の本のどこかに書いてあるのかもしれませんが、それを調べる暇もないので、私の感じたままを書きます。

 

 いちばんの候補は、目の見えない花売り娘がチャップリンの苦労によって目が見えるようになり、人生に明かりが灯ったということを意味しているのかなと思いました。映画の冒頭に、チャップリンと花売り娘が初めて出会ったとき、花売り娘が放浪者を優しい大金持ちと誤解するシーンが丁寧に描かれています。それに応えてチャップリンは優しい大金持ちを演じつづけます。娘のアパート代を稼ぐために賭けボクシングに出て、ノックアウトされてしまいますが、酔っぱらいの大金持ちからなんとか大金をくすね、目を治療するようにとその大金を娘にあげてしまい、本人はしばらく刑務所に入っていました。ようやくシャバに出てきたときには、すかんぴんの放浪者でした。しかし、花屋の娘とふと目が合います。チャップリンは娘の目が見えることに気づきました。目が見えるようになって、よかったね、と微笑みかけます。娘の眼の前にいるのはボロボロの服を着た放浪者です。それでも娘は花を一輪あげ、お金を恵んであげようとして手渡します。その手の感触が、かつて自分の目の治療費を出してくれた優しい大金持ちの手だということに気づきます。あなただったのね?と娘が訊くと、チャップリンは花を持った手を口に当てて、はにかむように頷きました。ここで映画はおしまいです。チャップリンの心にも明かりが灯った瞬間でした。