映画「わが谷は緑なりき」(1941年)は、イギリスのウェールズ地方の炭鉱町を舞台に、そこで暮らした少年ヒューとその家族の日々を描いた作品です。時代は19世紀後半、かつては黒いダイヤと呼ばれた石炭を掘るため、代々ヤマで働いてきた父や息子たち、それを支える母と娘たち。しかし時代は移り、石油がエネルギー源となっていくにつれて、炭鉱はだんだんと閉鎖されていくことになっていった。そんな時代のある炭鉱家族の愛と離散、恋愛と結婚と離婚、炭鉱町の衰退と争い、環境問題、人生論などがてんこもりの物語です。

 

 炭鉱で働いてきたヒューですが、50歳になり、生まれ育った故郷を去っていくときに、むかしはこの谷も緑だった、と懐かしく思い出すところから映画は始まります。監督のジョン・フォードは、本作の一年前に制作した映画「怒りの葡萄」で農地問題を扱っており、悲運にみまわれるという点では共通しておりますが、本作は家族愛が根底にあり、貧しくとも前向きに生きる人間、美しい渓谷を描いておりますから、不思議と暗さのない作品です。また白黒映画ですから、かえって緑の渓谷や咲き乱れる水仙の花などが鮮やかに思い浮かばせ、詩情あふれるものとなっています。

 

 ウェールズはイギリス(正式名称は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)の四つあるカントリー(イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド)の一つです。イングランドとスコットランドとウェールズは多くのスポーツで独立した統括団体があり、イギリス内でインターナショナルの試合をしており、また国際スポーツ大会においても、それぞれの代表に分かれて競い合っております。サッカーとかラグビーのワールドカップでは、連合王国の国旗ユニオン・ジャックではなく、それぞれの国旗を掲げております。連合王国の国旗はそれぞれのカントリーの国旗を合わせたデザイントとなっておりますが、ウェールズはかなり古くからイングランドに統合されており、また国旗のデザインが独特なので、ユニオン・ジャックにはとりこまれておりません。

 

 世界に先駆けて、産業革命を起こし、近代化をなしとげた大英帝国ですが、その原動力となったのが、ウェールズ南部の良質の石炭でした。舞台となる炭鉱の町の名前は映画に出てきませんが、そこはかつて数ある炭鉱の中心だった「ロンダの谷」です。ロンダの谷はウェールズの首都カーディフから北西に20kmにあります。このロンダ渓谷を中心とする炭鉱から採掘されるのは無煙炭で発熱量が高く、製鉄や蒸気機関の燃料に最適だったために、需要が高かったのです。「黒いダイヤ」と呼ばれてウェールズに富をもたらしました。品質の高さから、ウェールズ産の石炭の多くは輸出にまわされ、ウェールズの首都カーディフは世界への輸出港として繁栄したのです。

 

 このウェールズ炭は日本と深いかかわりがありました。1904年に勃発した日露戦争です。無敵のバルチック艦隊を撃破した日本海軍の連合艦隊にはウェールズ炭が積まれていました。この戦争の二年前の1902年に締結された日英同盟により、イギリスはウェールズ産の石炭を日本のために、ロシアに禁輸したのです。ロシアのウクライナ侵略戦争も百年前と変わっていないみたいです。

 

 ウェールズの別名は「歌の国」です。みんなが歌好きで、炭鉱で一仕事終えると、みんなは歌いながらヤマを下りていきます。口ずさむのが「ロンダの谷」です。イギリスでは、「天国のパン(bread of Heaven」という賛美歌です。

 

Guide me, O Thou great Redeemer     おお偉大なる救い主よ、わたしを導いて

 

Guide me, O Thou great Redeemer     おお偉大なる救い主よ、わたしを導いて

 

Pilgrim through this barren land;        この不毛の地をめぐる巡礼者

 

I am weak, but Thou art mighty,         私は弱いけれど、あなたは強い

 

Hold me with Thy powerful hand.       あなたの力強い手でわたしを抱きしめて

 

Bread of heaven, Bread of heaven     天国のパン、天国のパン

 

Feed me till I want no more       もうほしくなくなるまで食べさせて

 

Feed me till I want no more.      もうほしくなくなるまで食べさせて

 

 今ではロンダ渓谷の谷あいも廃鉱のボタで黒くなってしまったけれども、ここを去っていくヒューが目を閉じれば、父から教わったこと、頑固な父への尊敬、また母の愛、美しい姉、五人の兄たち、そしてウェールズでいちばん美しかった緑の谷が見えてくるのでした。