おはようございます。


今日から古事記絵本

挿絵を作成の準備。


🌟 挿絵のはじまりに


まだ空も大地もなく、


形も名前もない世界。


その静けさの中で、


あたたかな光がそっと生まれ、


やさしく結ばれてい


そんな瞬間を思い浮かべながら。


ここにあるのは、暗闇ではなく


静けさと、ぬくもりに満ちた「無」。


怖さはなく、


どこかほっとする、


やさしい神話のはじまりです。


今にも世界が動き出しそうな、


その「直前のときめき」を胸に、


一筆目を入れていきます。


いつも応援ありがとうございます。




感謝


全国古事記塾主宰 今野華都子







晴れ渡る青空の下、餅つきを行いました。
水江さん、本当にたくさんのご準備をありがとうございました。

餅米、杵と臼、蒸籠、竈門、薪、餅取り用の番重まで――
すべて持ち込んでくださり、なんと四臼も搗いてくださいました。

特に玄米餅は、蒸した米が熱いうちに搗かないと粒が潰れなくなってしまうため、
スピードと力が必要。見ていても迫力がありました。

朝から佐藤さんご夫妻も助っ人に来てくださり、
たかちゃんが煮てくれた餡子、きな粉、大根おろし、お汁とともに、
搗き立てのお餅をみんなでいただきました。
本当に美味しく、心まで満たされるひとときでした💕

たくさんいただいたうえに、お土産までパックにして持ち帰らせていただき、感謝いっぱいです。

楽しいご神事を体験させていただき、本当にありがとうございました🙏💕

古事記』には、

とても静かで、しかし深い問いを投げかける場面があります。


国造りを進める大国主命の前に、

海の彼方から小さな神が現れます。

それが少名毘古那神


大国主命は問いかけます。

「この神は、いったい何者なのか」


けれど、その場にいた誰も答えられません。

神々も、人々も、その正体を知らなかったのです。


そのとき――

ただ一人だけ、知っていた存在がいました。


それが、久延毘古

いわゆる、カカシの神です。


『古事記』はこう記します。


久延毘古神、口きかねど、

天下のことをみな知る神なり。


言葉を発さず、

動きもせず、

それでも、すべてを知っている。


相対的な価値観で見れば、

カカシは動かず、話さず、役に立たない存在に見えます。

しかし不思議なことに、

動き、語り、知識を誇る者たちが知らなかったことを、

この「何もしない存在」だけが知っていた。


ここには、

見えること、動くこと、語ることだけが価値だと信じてきた

私たちへの、静かな問いがあります。

表に現れないものの中にも、真理は宿る――

相対の世界では、そんな逆説が示されています。


さらに絶対の視点に立つと、

久延毘古は「物知りな神」ではありません。

言葉を超え、行為を超え、

ただ、あるがままに立ち、

風を受け、雨を受け、季節の巡りをその身で知る存在です。


「言葉なくして、すべてを知る」とは、

情報を集めた知ではなく、

分けず、裁かず、比べない知。

天地の理と一つになった、神知を意味しています。


動き、決め、進める神である大国主命は、

語らぬ神・動かぬ神を通して、

微細なるいのち――少名毘古那神の正体を知ります。


それは、

動から静へ。

相対から絶対へ。

外から内へ。


世界の次元が転換する瞬間でした。


久延毘古は、今日も天の下で何も言わず、動かず、

それでも、すべてを見ています。


古事記は、声高に教えません。

ただ、静かに示します。


語らないものが、すべてを知っていることがある。

動かないものが、世界を支えていることがあるのだと。


全国古事記塾主宰 今野華都子 記す







奇跡は、信じて動いた人のところにやってくる


この年末、私は5日間で

A4サイズ挿絵を50枚描きます。


数字だけ聞くと、

「大変そうですね」と言われることもあります。

けれど私の中には、不思議と迷いがありません。


出来るし、やる。


そう決めた瞬間から、

時間も、人も、流れも、静かに整い始めました。


目指すのは、2月11日・建国記念の日。

写真家さんも、出版社の編集者さんも、

みんな同じ日を見据えて動いてくれています。


文章はすでに出来上がっています。

あとは、私の挿絵だけ。


私はこの時間を、

「追い込まれた制作」だとは感じていません。

むしろ、毎年訪れる奇跡の時間だと思っています。


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子どもたちに手渡したい世界


今回描く絵本の挿絵は、

8〜10歳の子どもたちが、


「日本の神話って、美しい」

「自然って、生きているんだ」


そう感じてくれる世界を目指しています。


神話の神さまは、

怖い存在でも、遠い存在でもありません。


山や川、風や光の中に息づき、

人と自然とが、もともとひとつであったことを

そっと思い出させてくれる存在です。


私は絵を通して、

自然・神・人がひとつにつながる

“むすひ”の世界を描きたいと思っています。


それは説明するものではなく、

感じてもらう世界。


見る人の心に、

祈り

ひかり


が、静かに灯るような絵を。


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奇跡は特別な人だけのものではありません。

信じて動いた人のところに、

必要なかたちで訪れるものです。


私もまた、

神様との共作の中で、

一枚一枚、絵を重ねていきます。


さて、この年末年始、どんな世界が生まれてくるのかとても楽しみです。



私はとても静かで落ち着いています。



全国古事記塾主宰 今野華都子記す













年末が近づくと、私たちは自然と動き始めます。


大掃除をし、

松飾りを整え、

注連縄を掛け、

お節を用意し、

年が明ければ初詣へ向かう。


けれど、これを

「宗教行事をしている」

「信仰心から行っている」

と意識している人は、あまり多くないのではないでしょうか。


多くの人にとってそれは、

特別な信念ではなく、当たり前の年の締めくくりなのです。


気づいたら、そうしている



日本人の日常には、こんな行為が静かに息づいています。


  • 仏壇にお茶を供える
  • 「お天道様が見ている」と思って生きる
  • 先祖を大切にする
  • 季節の行事を自然に受け継ぐ



これらは

「この神を信じると決めたから」

「教義に従っているから」

行っているわけではありません。


👉 気づいたら、そうしている

👉 暮らしの中に、すでに染み込んでいる


そんな感覚ではないでしょうか。





日本の信仰は「信じる」より「在り方」




日本の信仰は、

何を信じるかよりも、

どう在るかを重んじてきました。


神は信じる対象ではなく、

すでに共に在る存在なのです。


日常そのものが、祈りになる

多くの言葉を唱えなくてもいい。

強い信念を掲げなくてもいい。


暮らしを整え、

場を清め、

人を思いやり、

季節の巡りを敬う。


その日常の在り方そのものが、

神と共に在る状態です。


だから日本人は「無宗教」と言いながら、

祈り、供え、感謝し、節目を大切に生きてきました。


それは矛盾ではありません。


👉 信仰を思想ではなく、生き方として受け継いできた

それが、日本という文化なのです。



全国古事記塾主宰 今野華都子記す







世界は「正しさ」だけでは鎮まらない

【 神話に学ぶ、分断を抱きしめる力 】

世界が荒れるのはなぜでしょうか。

それは、「どちらが正しく、どちらが悪いか」が決まらないからではありません。

それぞれが、正しすぎるからです。


私たち日本人の精神の底流には、

イザナギ・イザナミの神話が流れています。

そしてそこに、静かに重なってくるのが「くくり姫」という存在です。


今日は、裂けたままの世界をやさしく抱え直す、

古くて新しい知恵について綴ってみたいと思います。

国生み ― 「むすび」が自然だった頃

物語の始まり、イザナギとイザナミの働きは、天と地をつなぎ、混沌に形を与えることでした。これは「ムスヒ(産霊)」の力です。


この時代、生と死はまだ分かれず、

男性性と女性性も対立していません。世界は、生成し続ける一つの流れの中にありました。


統合の力である「くくり姫」的な働きは、特別に名指しされることもなく、世界の前提として自然に息づいていたのです

火の神の誕生 ― 世界に裂け目が入る

しかし、火の神カグツチの誕生によって、イザナミは命を落とし、世界に初めて「死」が固定化されます。


ここで、生と死、清と穢、此岸と彼岸という決定的な断絶が生まれました。

自然に働いていた「むすび」が、断ち切られてしまった瞬間です。


黄泉比良坂 ― 結べなかった境界


亡き妻を追って黄泉の国へ向かったイザナギ。

しかし、そこにあったのは再会ではなく決別でした。

最後に行われたのは、和解ではなく

千引の岩による封印でした。


それは、「くくる神」が不在の世界の姿。

正しさと穢れを分けることでしか、

秩序を保てなかった在り方とも言えます。 


禊 ― 再生しても、分断は残る


黄泉から戻ったイザナギは禊を行い、天照大神、月読命、須佐之男命が生まれます。


確かに再生は果たされました。

しかし、夫婦は戻らず、生と死の分断はそのまま残ります。


くくり姫 ― 裂けた世界を抱きしめる力

ここで重なってくるのが、白山くくり姫です。

くくり姫は、生にも死にも偏らず、

天にも地にも属さず、境界そのものに立つ神です。


雪(天)・水(地)・山(境界)が重なる白山はその象徴的な場所でもあります。


くくり姫は、黄泉比良坂で果たされなかった「結び直し」を別の次元で引き受けた存在。

イザナギの神話が「切る」ことで世界を保ったのに対し、

くくり姫は「結ぶ」ことで世界を整える。

どちらが正しいのではなく役割が違うのです。

『古事記』において、くくり姫の登場はごくわずかです。

それは、『古事記』が「世界がどう始まり、なぜ分かれたか」を語る書だからでしょう。


一方で、分かれたものをどう生き直すか、分断とどう共に在るか。

それは、後代を生きる私たちに託された問いです。


正義と正義がぶつかり合う現代。

白黒をつけて「切る」ことだけが答えではありません。


矛盾したものを、矛盾したまま抱え、裂け目をやさしく「くくる」

そんな、くくり姫のような力が、今の私たちにこそ必要なのかもしれません。

全国古事記塾主宰 今野華都子 記す




古事記が語る「精妙」とは何か


古事記の時代

神々はかすかな気配として現れ、

静かに世界を動かしていく存在として描かれています。


現代の私達も決して大きな声で相手を打ち負かしたり、強い力で支配ことを良しとしません。


この在り方こそ、

古事記が大切にしてきた「精妙(せいみょう)」の世界です。




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🌸 精妙とは「小さきものに宿る神性」


「精」とは、きよらかで、にごりのないこと。

「妙」とは、言葉では言い尽くせない、はかりがたい美しさ。


古事記において神の力は、

雷鳴のような激しさよりも、

風のそよぎ、水のゆらぎ、

人の心にふと灯る気づきとして現れます。


少名毘古那神のように、

掌に乗るほど小さな神が

国造りの要となったことも、その象徴です。


古代の日本人は、

「大きさ」や「強さ」よりも、

微細で繊細な働きの中にこそ、

宇宙の理が宿ると感じていたのです。




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🌸感じ取る力が、神と人を結ぶ


古事記の世界では、

神は命令する存在ではありません。


人が心を澄ませたとき、

自然のうちに“感じ取られる存在”です。


それを、古の人は

「感応(かんのう)」と呼びました。


祈りとは、願いを届ける行為ではなく、

自分の心を精妙な状態へと整え、

神の気配に“気づける在り方”に戻ること。


拍手や祝詞が「音」を大切にするのも、

意味より先に、響きが心を澄ませると知っていたからなのです。



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🌸 精妙を失うと、神は遠ざかる


古事記は教訓を語りません。

けれど、静かにこう伝えています。


神は、荒れた心には映らない。


怒りや恐れ、競争や正しさに覆われたとき、

精妙なものは見えなくなります。


逆に、

やわらぎ、ゆるみ、

小さなものを愛おしむ心が戻ったとき――

神はすでに、そばに在る。



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🌸精妙とは、生き方そのもの


精妙とは、特別な感覚ではありません。


・誰かの声色の変化に気づくこと

・季節の香りに立ち止まること

・言葉にならない涙を大切にすること


そうした一つひとつが、

日本人が大切にしてきた感応はの世界に生きるということなのです。


精妙への感応とは、

世界と争わず、響き合って生きるための心の姿勢なのです。


全国古事記塾主宰 今野華都子記す








「お天道様が見ている」という真心の文化


日本人は昔から、


できるだけ真心を尽くそうとして生きてきました。


それは「誰かに見られているから」ではありません。




古事記でいう「天(あめ)」とは、


自然や神々、いのちの働きと共に在る世界。


「お天道様が見ている」とは、


罰したり裁いたりする目ではなく、


共に在り、すべてを照らすまなざしのことです。




だから日本人は、


他人が見ていなくても、


罰がなくても、


自分で自分に恥じるという感覚を育ててきました。




それは、外から植えつけられた道徳ではありません。


古事記のアマテラスの光は、


世界を照らすと同時に、人の内側にも宿る光だからです。




だからこそ日本人は、


完璧でなくても誠実であろうとし、


人を疑う前に、まず信じてみようとしました。


そして、信じられる自分であろうと、


自分の心を整えることを大切にしてきました。




古事記の神々も、失敗し、間違いを起こします。


それでも責め合うのではなく、


むすひ直し、やり直していく存在として描かれています。




日本人が真心を尽くそうとするのは、


罰が怖いからでも、


評価されたいからでもありません。


自分の中の魂の光を曇らせたくない


という、静かな感覚があるからです。




「正しさ」よりも、どんな心で在るか。


「勝ち負け」よりも、真心を尽くしているか。




「お天道様が見ている」とは、


天と共に生き、


真心を尽くそうとする


日本人の生き方そのものなのだと思います。




全国古事記塾主宰 今野華都子絵と文記す




アマテラス(ほむら)


なぜ「祓い」が最初に来るのか

なぜ祝詞は意味より「音」なのか

 なぜ柏手を打つのか

祝詞・柏手・祓いは、ひとつの流れ

ここは日本の神観の、いちばん深いところ。

祝詞・柏手・祓いは、別々の作法ではなく、

同じ思想の三段階です。

日本の祭祀は、

神に何かを伝えるためのものではありません。

人の側を、

神に共鳴できる状態へ戻すための技法なのです。

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なぜ「祓い」が最初に来るのか

祓いは、罪を消すためのものではありません。

日本でいう穢れとは、

流れが滞った状態のこと。

疲れや思考、感情や執着を落とし、

本来の、まっさらな状態へ戻る。

祓いがあってこそ、

祝詞も柏手も、はたらき始めます。

なぜ祝詞は「意味」より「音」なのか

祝詞は、読む言葉ではなく、響かせる音。

神は意味や理屈の前の層に働く存在だからです。

「あ・え・お」

「か・む・な・が・ら」

これらは説明ではなく、

身体と場を整えるための振動。

祝詞とは、

神に語りかける言葉ではなく、

自分と場を神の周波数に調える音なのです。

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なぜ柏手を打つのか

拍手は、歓迎や合図ではありません。

場を切り替えるための音です。

柏手を打つと、

一瞬、音が消え、静けさが生まれる。

その「間」に、意識が今・ここへ戻ります。

柏手は、

神を呼ぶ音でも知らせる音でもなく、

日常から祭祀へ移るスイッチなのです。

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三つは「人を整える三段階」

祓いで余計なものを落とし、

柏手で意識を今に戻し、

祝詞で場と共鳴する。

どれも神を操作する行為ではありません。

人が神に近づくための準備。

それが、日本の祭祀なのです。

全国古事記塾主宰 今野華都子記す








なぜ神社で静かになるのか

なぜ願い事を言ってはいけないと言われるのか

なぜ「感謝」が先に来るのか


日本の神社は、

「願いを叶えてもらう場所」ではありません。


自分の生き方を、

神のはたらきに重ね直す場所です。


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なぜ願い事を言ってはいけないと言われるのか


「願ってはいけない」というより、

願いをぶつけないという感覚。


願いは多くの場合、

足りない、欲しい、こうなってほしい、

という欠乏から生まれます。


その状態では、

流れを生み続ける神のはたらきと

少しずれてしまう。


だから古来の祈りは、

「○○してください」ではなく、

「私はこう生きます」という宣言でした。


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なぜ「感謝」が先に来るのか


感謝は礼儀ではありません。

神に最も近い心の状態です。


感謝のとき、人は

すでに与えられていること、

支え合って生きていることを

自然に思い出します。


だから願う前に、

まず「ありがとう」。


感謝とは、

神に何かを返す言葉ではなく、

神と同じ場所に一瞬立つことなのです。


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なぜ神社で静かになるのか


静けさはマナーではありません。


音を減らすと、

風や葉の揺れ、呼吸の音が聞こえてくる。

神は、そうした微細なところに宿ります。


だから人は自然と声を潜め、

内側へと向かっていく。


静かになるのは、

敬っているからではなく、

神に近づいているからです。


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日本の祈りが目指すもの


願いを手放し、

感謝に立ち、

静かになる。


それは、

変えてほしい未来を求めることではなく、

すでに流れている命と歩調を合わせること。


古事記の神々も、

願いを叶える存在ではなく、

生み、壊し、やり直し、つなぎ直す

そのプロセスそのものでした。


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ひと言で言うなら


日本で「よい祈り」とは、

神に近づくことではなく、


自分が神から遠ざかっていたものを

そっと手放すことなのです。


全国古事記塾主宰  今野華都子記す