「周りに迷惑をかけてはいけない」


そう教えられて育った人ほど、本当はとても優しい人です。


だからこそ、自分の気持ちより周りを優先し、遠慮しながら生きてしまうことがあります。


けれど森の木々を見ていると、一本だけが我慢して生きているわけではありません。


高く伸びる木もあれば、木陰を支える木もある。


土の下では、根を通して水や栄養を分け合いながら、それぞれが自分の命を生き、全体と響き合っています。


自然は、「自分を消すこと」で調和しているのではないのです。


「自分をどう表現したらいいかわからない」


そう感じる時は、まだ“何者かにならなければ”と思っているのかもしれません。


でも本当は、あなたはもう既に、かけがえのない存在としてここにいます。


一滴の水の中に海があり、一人の命の中に宇宙がある。


あなたの笑顔も、涙も、迷いも、優しさも、言葉にならない想いも、全部があなただけの表現です。


無理に立派な自分を作らなくてもいい。上手に表現しようとしなくてもいい。


ただ、感じたことを感じ、好きなものを好きと言い、今日を生きる。


その姿そのものが、もう「あなた」という表現なのです。


人は、咲こうとして咲くのではなく、命のままに咲いていくものだから。


自分らしく生きるとは、わがままになることではなく、自分の光を隠さず、相手の光も尊ぶこと。


優しさとは、自分を押し殺すことではなく、


自分の命にも、相手の命にも、同じように光を当てることなのかもしれません。


感謝💕🙏


全国古事記塾主宰今野華都子 絵と文記す


「宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)」




「どう生きたらいいかわからない」


そう感じるほど、

あなたはきっと、

ずっと心を張りつめて生きてこられたのでしょうね。


それは「今までの生き方では、もう苦しい」という

心からの大切なメッセージなのだと思います。


あなたは、

怠けているのでも、

弱いのでもありません。


とても繊細で、

感受性が深く、

人や空気を敏感に感じ取る優しい人なのですね。


だから


人前で目立つと疲れる

人との交流で消耗する

責任を抱え続けることが苦しい

競争が苦手

自然の中にいるとホッとする


のだと思います。


しかも個人事業主は


自分が止まれば収入も止まる

常に責任を背負い続ける

将来への不安が消えない


という、

見えない緊張の連続です。


「仕事を辞めたい」


そう思うほど疲れているのは、

それだけ頑張ってきた証なのだと思います。


でも、

疲れ切った状態で、

人生の答えを急いで出さなくて大丈夫。


人は疲弊すると、

未来が不安になります。


今必要なのは、


 「もっと頑張ること」ではなく、「人生を立て直すための休息」なのかもしれません。


今は、

「何をしたいかわからない」のではなく、


「心が疲れ過ぎて、

自分の感覚が止まっているだけ」なのだと思います。


だからまずは、


自然の中を歩いたり

疲れる人と少し距離を置いたり

 「こうあるべき」の自分ルールを破ってみたり


自分の不自由を自由にさせてください。


まずは、自分を消耗させない生き方」をやってみること。


すると少しずつ、


心がラクな場所

こうしたいという働き方

本当に大切にしたいもの


が見えてくることがあります。


あなたは、

競争の中で無理に輝く人ではなく、自分で楽しく工夫し、自分で静かに喜びを見つけられる人なのです。


🌿 穏やかに

🌿 自分らしく


生きることで、

周りを安心させる人なのだと思います。


いまはゆっくりと体を休めてください。


そしてゆっくりと「自分はどうしたい」と問いかけてください。

「自分はこうしたい」と心が立ち上がって来くるまで待つと焦らないで思ってください。


すると

「気」が巡り、

「心」が向かうところへ、

体は自然と動き出します。


それが、

表情になり、

姿勢になり、

生き方になって現れてくるのだとおもいます。


古事記でいえば、

まず“内なる神”が動き、

そのあとに現実が動くのです。


人生には何度もこうして本当の自分に会いに行く時間が必要です。


そして何度も魂の軸を整えて、本当の自分を生きるのです。


感謝


全国古事記塾主宰 今野華都子絵と文記す




人は、自分が傷つきそうになると、

無意識に「相手そのもの」を悪者にしてしまうことがあります。


本当は、

なぜその指示が必要なのか

何を守ろうとしているのか

どんな目的があるのか


を見なければならないのに、


「怖い」

「嫌い」

「責められた」


という感情が先に立つと、

心は自己防衛に向かい、

本質が見えなくなってしまうのです。


もちろん、

伝え方に配慮は必要です。


けれど、

厳しい言葉の奥に、


・責任

・役目

・全体を守る意識


が含まれている場合もあります。


本当に成熟した人は、

感情だけで反応するのではなく、


「この言葉の奥に何があるのか」


を見ようとします。


すると、

単なる「恐怖」だったものが、


・成長のための課題

・信頼されて任されている証

・自分を鍛える機会


として見えてくることがあります。


感情だけで相手を見ると対立になり、

本質を見ると学びになります。



全国古事記塾主宰 今野華都子絵と文記す


海神(わたつみのかみ)



この世は矛盾に満ちた世界


光と影

喜びと悲しみ

出会いと別れ


という相対の中で成り立っています。


人生には、苦しみや矛盾も避けられません。

けれど大切なのは、

そこから逃げることではなく、


苦しみの中で何に気づくのか

愛を失わずに生きられるか

なのだと思います。


人は苦しみを通して、


「私は何のために生きるのか」

を問い始めます。


人は、

順調な時には、案外「生きる意味」を深く考えません。


毎日が忙しく過ぎ、

やるべきことをこなし、

目の前のことで精一杯だからです。


けれど、


病気になった時、

大切な人を失った時、

裏切られた時、

努力しても報われなかった時、

孤独や不安に飲み込まれた時、


人は初めて立ち止まり、


「私は何のために生きているのだろう」と問い始めます。


苦しみは、

ただ人を傷つけるだけではありません。


時にそれは、


傲慢さを砕き

他人の痛みを知り

感謝を思い出させ

愛の尊さに気づかせる


働きにもなります。


本当に苦しんだ人ほど、


人に優しくなったり、

小さな幸せに涙したり、

誰かの痛みに寄り添えるようになることがあります。


それは、


苦しみを通して

「自分中心の世界」が少しずつ壊れ、


命の本質に近づいていくからなのかもしれません。


苦しみの中で何を選ぶか

絶望の中で何を信じるか

傷つきながらも愛を失わないか


その積み重ねなのだと思います。


魂は、

楽な時よりも、


苦しみの中でこそ、

深く磨かれていくのかもしれません。


そしてその問いの中で、

人格や魂は磨かれていく。


命の本質へ近づいていくこと

なのかもしれません。


感謝🌸🙏


全国古事記塾主宰 今野華都子絵と文記す




たまつくりのこころ


古事記に登場する

「八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠

(やさかにのいほつのみすまるのたま)」


古事記には、

「この珠を常に御身から放さずに大切に奉持しておられた」とあります。



古代における「たま」は、

単なる玉ではありません。


そこには、


🌸 魂(たま)

🌸 霊(たま)

🌸 神宝(たま)


という意味が重ねられています。


だから珠を持つということは、「魂を忘れない」



珠とは、ただ身につけるものではなく


自分が何者であるか

何のために生まれてきたかどのように生きるか


を忘れないための「しるし」だったのです。



「たまつくのこころ」

それは単に工芸品を作りたい、という意味ではありません。


「私もまた、天照大御神のお心に沿って生きたい」という祈りなのだと思います。



古事記では、

八百万神は、


「ひのかみ」の使命実現を助ける存在として描かれています。



神々は、それぞれ勝手に存在しているのではなく、


🌸 大いなる調和

🌸 天の理想

🌸 光の実現


のために働いている。


だから古事記には

「神議り(かむはかり)」があります。


神々が集い、


「どうすれば、

よりうるわしい世界になるか」を相談しているのです。


これは、

現代を生きる私たちにも通じるのではないでしょうか。


競い合い、

奪い合うためではなく、


それぞれが自らの役割を生きながら、

共に光を実現していく。


それが本来の「たまつくりのこころ」


人は忙しさの中で、

いつの間にか使命を忘れます。


何のために生きているのか。


何を大切にしたかったのか。


でも本当は、

誰の中にも「珠」がある。


その珠を曇らせず、

大切に奉持して生きること。


それが、

古事記が伝えようとしている

「いのちの道」なのだと感じています。



全国古事記塾主宰 今野華都子記す




話が伝わる人、伝わらない人


〜伝える側として本当に大切なこと〜


「どうしたらもっと伝わるのだろう」


人に何かを伝えていると、

誰もが一度は感じることかもしれません。


同じ話をしても、


深く頷き、

涙を流しながら受け取る人もいれば、


まるで風のように

通り過ぎていく人もいる。


昔は、

「言い方が悪かったのかな」

「説明不足だったのかな」

と思っていました。


でも、今は少し違うように感じています。


話が伝わるかどうかは、

知識や理解力だけではなく、


その人が

「どこで聞いているか」

によって大きく変わるのだと思うのです。


頭だけで聞いている時。

損得で聞いている時。

自分を守りながら聞いている時。


本当に大切な言葉ほど、

奥まで入っていきません。


反対に、

理屈ではなく、

その人が魂で受け取る瞬間があるのです。


だから私は最近、

伝わらないことに、

以前ほど焦らなくなりました。


どれほど素晴らしい種でも、

芽吹く「季節」がある。


古事記でも、

神々は「時」を待ちます。


無理に岩戸をこじ開けたりはしない。


その人の内側から

静かに「開きたい」と願った時に、

初めて本当に届くのでしょう。


だから、

伝える側に必要なのは、

無理に理解させようとする力ではなく、


相手の時を信じて待つこと

なのかもしれません。


そしてもう一つ、

とても大切だと思うことがあります。


それは、「何を語るか」以上に、


「どう生きているか」

が伝わっているということ。


人は、

言葉よりも、


その人の空気、

眼差し、

静けさ、

在り方を感じています。


だからこそ、

伝える側は、


知識を増やすこと以上に、


自分自身を整え、

出来ないながらも誠実に、

善(うるわ)しく生きようと努めていること、


そして同時に、

自分もまた、学びの途中であることを忘れない

こと。


「自分は分かっている側」

になった瞬間、

言葉は硬くなり、

どこかで人を裁き始めてしまう。


でも本当は、

誰もが未熟で、

誰もが人生の途中。


だからこそ、

相手にも余白を持てるし、

待つことができる。


私たちは皆、

それぞれの痛みを通りながら、

少しずつ、

いのちを学んでいるのだと思います。


人を変えようとしなくていい。

無理に引っ張らなくていい。


ただ、

自分の光を静かに灯して生きる。


その姿そのものが、

いつか誰かの岩戸を開く光になる。


私は、

そんなふうに感じています。


全国古事記塾主宰 今野華都子絵と文記す


絵の題名「宇宙の目」


《宇宙の目》

それは、はじまりのまなざし。

この目は誰をも裁かない。

ただ、ありのままを抱きしめる。

宇宙は外にあるのではない。

あなたの内側で、いまも静かに光っている。



今朝方

去年5月に亡くなった母が会いに来てくれた。


すごく自然にいつものように部屋にいてお片付けをしてくれていた。


「えっ!どうしたの?お母さんは去年光になったんだよね」


母は、手は動かしながら、私をみて微笑んでいた。


目が覚めて


明日が母の日だから、

命日も近いから来てくれたんだね。


私はお父さんとお母さんがくださったこの体で

祖先から受け継いだ、厳しくても優しく魂の使命を果たして行きます。


いつも見守ってくれてありがとう✨✨


感謝🌸✨




〈善とは何か――古事記の“善・うるわし”〉


私たちは普段、

「善い人」と聞くと、


正しい人

立派な人

我慢できる人


そんなイメージを持つかもしれません。


けれど古事記では、

「善」はもっと深く、

もっと命そのものに近い感覚で語られています。


それが

「うるわし」です。


「善・うるわし」とは、

単なる「綺麗」や「美しい」ではなく、


「汚れを祓い、

その中より“うるわしきこと”を生ぜしむること」


命が本来の姿へ戻り、調和している状態 を表しています。


だから古事記でいう「善」とは、

誰かを打ち負かす正しさではありません。


その人の命が、

その人らしく美しく響いていること


なのです。


さらにとても深いのは、


「善・うるわし」と決定する権威は

〈ひのかみ〉にある


これは、


人間の狭い価値観で


成功したから善い、

お金があるから善い、

有名だから善い、


そうではない。


本当に“うるわしきひと”とは、


🌿 人を安心させ

🌿 調和を生み

🌿 命を活かし

🌿 周囲を和ませる


そんな存在だったのだと思います。


古代日本人が目指したものは、


「何を持ったか」ではなく、


✨ どんな存在になったか ✨


でした。


だから「善」は、

誰かを裁くためのものではなく、

命が本来の調和へ戻っていくこと。


真・美・愛が

ひとつに結ばれている状態。


それが日本人の最高目的

「善・うるわし」なのでしょう。


人は皆、

まだ途中だから


祓いながら、

迷いながら、

揺れながら、

未熟さを抱えながら生きている。


それでも命は、

“善・うるわし”へ向かっている。


その眼差しこそ、

古事記の語る「善・うるわし」なのだと感じます。


昨日の神戸古事記塾の学びよりシェアします。


全国古事記塾主催 今野華都子絵と文記す


題名

【アマテラス「ほむら」】






スサノオの「泣きいさち」とは、単なる号泣ではない。

人は本当に深く泣いた時、
以前の自分ではいられない。

古事記は、その「いのちの変容」を、スサノオを通して描いているように感じます。

「なきいさち」
古事記原文では、

「青山(あをやま)は枯山(かれやま)なす泣き枯らし、
河海(かはうみ)は悉(ことごと)に泣き乾(ほ)しき」

と続きます。

この「泣きいさち」の
「いさち」は古語で、

✨ 勇み立つ
✨ 激しくなる
✨ 荒れ騒ぐ
✨ 勢いが止まらない

という意味があります。

つまり単なる「シクシク泣く」ではなく、魂が爆発するほど泣く状態です。

本当に深い悲しみ、
喪失、愛するものを失う痛みは、

世界の見え方そのものを変えてしまう。

そして重要なのは、

古代人は
その荒ぶる感情を
単純に「悪」とは見ていないことです。

スサノオは、

激しい感情

浄化

創造

へ転化し後に
〈八岐大蛇退治〉へ向かうのです。

人は本当に深く泣いた時、
以前の自分ではいられない。

古事記は、その「いのちの変容」を、スサノオを通して描いているように感じます。

全国古事記塾主催 今野華都子絵と文記す

絵は「親子で読める日本一わかりやすいえほん古事記」今野華都子著の挿絵より

今日は京都古事記塾へ







水を飲みたくない馬に水は飲ませられないように、魂の渇きを覚えていない人には、言葉を伝えても届かないことがあります。


人は、

「当たり前」に与えられていた

健康も

愛も

尊厳も

失った時にはじめてその尊さに気づきます。


けれど、失ってからでは遅いことも多いのです。


だからといって、


「感謝しなさい」

「あなたは恵まれている」


と正論をぶつけても、

心は閉じてしまいます。


なぜなら、

「当たり前」に慣れている人ほど、与えられているものが見えなくなって、


むしろ「自分の方がやってる」と思っているからです。


「与えられているもの」を心から感じることを重ねていくことが重要なのだと思います。


・誰かが黙って支えてくれていたこと

・食事が並ぶまでに、どれだけの命と労力があるか

・自由が、誰かの責任や我慢の上に成り立っていること

・愛されることが、本当は奇跡であること


そうした「見えなかったもの」が見えた時、

「有難し」と自然に頭が下がります。


尊敬も感謝も、

教え込まれるものではなく、


心が震えた時、

内側から湧き上がるもの 


そして、

本当の自由とは、


「好き勝手に振る舞うこと」ではなく


本当に自由な人ほど、

傲慢ではなく、

むしろ謙虚です。


本物の在り方を生き続ける

その姿に触れた時、


人の魂は、本来の渇きを思い出し始めるのだと思います。


感謝


アマテラスとスサノオの「受け日」

親子で読める日本一わかりやすいえほん古事記の挿絵