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ランニングもヨガも慣れてくると楽なもので、息が上がった時の呼吸とか、重心が取りづらい時の体の扱い方というのが、感覚的に頭が判断してその通りに体が動いていくし、呼吸もリズムよくできていくので、あとは私自身がその体の動きやリズムについていくだけで、100m、200mと1度に走れる距離が伸びていく。

 

もちろん日ごとの調子にも変動がある場合もあるので、その日その日の調子に合わせての運動ではありますが、多少暑くてもやっぱりお天気がいいのは嬉しいので、走ったり歩いたりするのも嬉しく楽しい気持ちになるので、いろいろ屁理屈を言いつつも、結局は直感で自分が赴くままに動くのが一番効果も出るのだろう。

 

 

土手を走れば川をカワセミが滑空していき、草むらではヨシキリが仰々しくにぎやかで、真っ青な夏空には真っ直ぐな雲を描く飛行機。暑いのなんの、そんな文句や屁理屈は汗と共にどこかへ流れ去っていって、残るのは爽快感と下がった体重計の数値だけ。

 

いつでも自分を生きるというのは、自分の行動や気持ち、それによって得られる幸福や達成感、その中には他人の評価は含む必要が無く、ただ普通に自分の日常を普通に過ごし、その中で、自分の心の赴く方へ赴くままに動いていくことだと思う。

 

自信があろうとなかろうと、どんな能力や技術を持っていようと、その持っているものが誰かと違おうとも、それは人の人生の数だけキリがないほどの何億通りもある『違い』という中に生きているのに、誰かと同じ生き方をする必要もない。自分でさえも、日によって気分や気持ちに変動があるぐらいだ。今日食べたい物ですら毎日違うのだから。

 

 

 

いくら優秀な登山ガイドをつけても、結局岩稜帯ややせ尾根を登るのは自分の身と心だ。ガイドさんは登れても自分は登れないかもしれない。心と体の仕組みや状況や質が人それぞれで異なる、その人との違いや差がある分、やっぱりちょっとずつ人それぞれで違ってくるものだ。

 

ただこの『違い』や『差』というのは悪しきものはないし、自分が怠惰だというわけでもない。

そこにあるのは単純に『違う』という事実だけ。そこに人の数だけ異なった価値観や意見や屁理屈や善悪をくっつけるから厄介なことになってしまうだけで、最初から『違って然り』な者同士でその『違い』の貝合わせなど不毛なだけだ。

まさに「私と小鳥と鈴と」である。

 

違いを楽しみ慈しみ、自分は自分で普通に愉快に生きていれば隣の芝生は青く見えてこない。自分の芝生だって青々としているし、花だって咲いている、鳥だって歌いに来る。それ以上に何が必要だろうか。自分の芝生の色やその内容が見れていないうちは、いつまで経っても隣の芝生は青く見えてしまうのだろう。