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私は特定の宗教信者でもなんでもないけれど、手に取った本にあった言葉に、確かにそうだよねって共感した言葉があった。

『その不満という荷物は私や他の人の物ではなく貴方の所有物です。それは私も他の人の持ち物でもなく、必要と望んでいるものでもございません。どうぞお持ち帰りください。』と、修行に明け暮れるお釈迦様に不満を垂れた修行僧に対して、たしなめたお釈迦様の言葉に“確かにそうだよな”と思った。

その人が何を考えて、どう思っていても、それはその人が自ら望んだことだから自由だし何をしていても別に構う余地もないけれど、それを他の関係のない人にも求めたり、自分の都合に巻き込むことは、本当の意味での迷惑。

自分の感情をあたかも人のせいにしてまで干渉する目的とはどこにある?考えたことも言葉も生産してるのは自分の心なのにね。

他者や社会、環境の自分の意にそぐわない事柄に対して、いちいち反応したり気にしながら生きてると、心も思考も窮屈になって、自分本意で不満や他責癖が口癖みたいに出てくるようになるのでしょう。柔軟性も乏しくなるから、自分の不満の感情を正当化してぶつけずには過ごせなくなる。犯罪者意識的なマインドですよね。




考えることなど生きていくなかには山ほどある。
自分自身に、自分の暮らしに、自分の人生に充足感を味わいながら暮らせていると、他の人の人生や思考や暮らしのことまで考えてあげるタスクは存在しないのよ。そうね、考えたり気にかけるのは、近親者の幸せや健康ぐらいかしら。

不満や文句に変換もされませんし、むしろ、引き出しのネタが増えてとても嬉しいぐらいね。問題回避のレパートリーが増えるじゃない。

自分の人生から何も学べてないと、レパートリーどころか引き出しすら増えないし、中身もスカスカ。中身を無視して出来事のみにフォーカスして自ら火をつけ油をたぎらせて飛び込む趣味もないし、そんな異次元に生きてる方も世の中にはいるのだろうと思うのだけれど、異次元過ぎて思考が追い付かないですね。

そもそもそこに使う思考力やエネルギーを持ち合わせていないですけどね。