同じように、

信仰も行いが伴わないなら、

それだけでは死んだものです。

 

しかし、「ある人には信仰があるが、

ほかの人には行いがあります」

と言う人がいるでしょう。

行いのないあなたの信仰を

私に見せてください。

私は行いによって、自分の信仰を

あなたに見せてあげます。

 

あなたは、

神は唯一だと信じています。

立派なことです。ですが、

悪霊どもも信じて、

身震いしています。

 

ああ愚かな人よ。あなたは、

行いのない信仰が無益なことを

知りたいのですか。

 

私たちの父アブラハムは、

その子イサクを祭壇に献げたとき、

行いによって義と認められたでは

ありませんか。

 

あなたが見ているとおり、

信仰がその行いとともに働き、

信仰は行いによって完成されました。

 

「アブラハムは神を信じた。

それで、それが彼の義と

認められた」という

聖書のことばが実現し、

彼は神の友と呼ばれたのです。

 

人は行いによって義と認められる

のであって、信仰だけによるのでは

ないことが分かるでしょう。

 

同じように遊女ラハブも、

使者たちを招き入れ、

別の道から送り出したので、

その行いによって

義と認められたではありませんか。

 

からだが霊を欠いては

死んでいるのと同じように、

信仰も行いを欠いては

死んでいるのです。

 

ヤコブの手紙2章17〜26節

 

 

それだけでは…あるいは「それ自体」

ある人には‥ほかの人には…

直訳「あなたには‥私には」

愚かな…直訳「空っぽの」

 

 

・参照箇所・

アブラハムについて…創世記22章

ラハブについて…ヨシュア記2章