「読了」という言葉を見かけるようになったのはいつ頃からだろう。


 私は読了という言葉を意識的に使わないようにしている。「了」という漢字を使うのは、あたかもそれを完全に、充全に読み終えたと断じているようで抵抗があるからだ。


 言葉は一度放たれると、話者の意図とは別の意味を帯びて独り歩きを始める。為政者がよく「誤解を与えてしまったことを謝罪する」といった台詞を使うが、言葉は本質的に誤解と誤読を伴うものだ。(だからといって、どうせ誤解されるのだから他者に言葉を尽くす必要はないなどと考えて、伝える努力を初めから怠ったり、説明責任を放棄するのは問題だが)言葉が話者の統御を離れて、言葉そのものの持つ力を発揮するありさまのことを、昔の人は言霊と呼んだ。


 特に表意文字である漢字は、各々の語源を調べると想像より遥かに深遠で多義的だ。漢字の碩学・白川静は多くの漢字の成り立ちが死や呪いに関連していることを論じ上げた。読了の「了」という漢字も例外ではない。


「了」は手足をくるまれた赤子、あるいは手足のない赤子を表した象形文字だという。そこから「おわる」「さとる」「しまう」という語意に繋がった。手足のない状態で産まれてきたのか、はたまた切り落とされたのか、いずれにせよ不穏な由来だ。言われてみれば、おくるみに包まれた赤子とミイラの姿はよく似ている。


「完了」「終了」などの熟語から感じるのは、やはり「これ以上動かしようがないほどに、100%すっかり終わった」というニュアンスだろう。それは失くした手足が元に戻らないことや、死んだ人が二度と生き返らないことに通じる。つまり、もうこれ以上変わらないということだ。


『養老孟司特別講義 手入れという思想』を読みながら、読了という言葉につきまとう「変わらなさ」について考えていた。


 

 



 本書は養老孟司の講演が書き起こされたものであり、計8つの講義が収録されている。劈頭の『子どもと現代社会』は1999年に行われた講義で、現代っ子を「テレビ世代」と称している言葉遣いに古さを感じるが、内容は全く古臭さを感じさせない。ここで言われている「テレビ」はYouTubeやNetflixやAmazonプライムビデオと実質変わらないからだ。


 養老孟司は、現代社会とはすなわち情報社会であり、情報とは生きている人間と違って「動かないもの」だと語っている。100年経っても今日のニュースは今日のニュースとして固定されたまま更新されることはない。そして文明社会に生きる人間は、固まったもの、固定したもの、安定したものを求める宿業を抱えている。エジプトのミイラは朽ち果てるはずの死体を永遠不変にする試みであり、聖書は世界の成り立ちを言葉で磐石に定めたものだという。



 なぜ自分が変わるという実感を持たないか。嫌なんでしょうね。どうして嫌なのか。自分が変わることが嫌なのです。自分が変わるのがなぜ嫌か。それは当然嫌です。現在の自分が、部分的であれ死ぬからです。そして、変わった自分が世界をどう見るかは、今の自分じゃわからないからです。これは怖いことです。目が覚めた瞬間、崖っぷちに立っていたらどうしよう、そういうことです。(22-24頁)


 変わることへの恐怖とはつまり、自分が自分でなくなることへの恐怖と言えるだろう。その根源的なものが死だ。人はみな死へと向かって老い続け、現在進行形で変化し続ける。その残酷で単純な事実から目を背けたい一心が、情報化社会を産み出すゆりかごになったのだと思う。


 しかし、不変とは成長しないことでもある。あなたはもうこれ以上、人間的成長も成熟も発展もしないと誰かに告げられたら、それこそ死ではないだろうか。


 十代の頃、自分の好きな漫画のオールタイムベストを選別して悦に浸っていたことがある。これらの漫画は過去現在未来において色褪せない名作で、自分にとって永遠の価値がある作品だと純粋に信じていた。ところが今読んでみると、はまっていた当時の熱は感じなくなっている。大好きで特別な作品であることは変わりないが、あの頃には見えていなかった欠点や粗があるのに気付く。こんなもんだったっけ……?と思うこともしばしばある。


 年相応に老いて、自分が変わったのだから当たり前だ。だが見えてくるのは欠点や粗だけではない。何とも思ってなかったシーンから新たな発見が立ち上がる。まだまだ汲み尽くせそうにない。金曜ロードショーで毎年放映されるジブリ映画を「またジブリかよ」とか言いつつ毎回観てしまうが、その都度に新しい発見があって毎回驚いている。


「読了」という言葉には、読んだ作品を情報として固定させる無意識の志向があるように思える。ノルマ消化のように本を読み「読了」と宣言していくのは、読書行為を単なるタスクに貶めてしまう危険がある。使った本人にその気が無くとも、言霊というのは怖いのだ。


 近頃読み続けていたレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』(村上春樹訳)を数日前にようやく読み通せた。作中の有名な台詞に「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」というものがある。先に引用した養老孟司の言葉が否応もなく想起させられる。


 登場人物のひとり、アイリーン・ウェイドが書き残した文章はこのように締め括られる。



あの人はノルウェイの雪の中で、若くして死んでいるべきだったのです。私がこの身を捧げた恋人として。私の前に戻ってきた彼は、博奕打ちの仲間であり、金持ちの淫蕩女の夫であり、だらしなく身を持ち崩した男でした。過去においてはきっと不正なことにも手を染めていたでしょう。時間はすべてをみすぼらしく、汚ならしく、歪んだものに変えていました。ハワード、人生でもっとも切ないのは、美しいものごとが若いうちに命脈を断たれることではなく、年老いて穢れていくことなのです。しかし私の身はそれとは無縁のままに終わることでしょう。さよなら、ハワード」(515頁)


 この小説には、変化を受け入れた人と受け入れられなかった人々が多く登場する。「さよならだけが人生だ」と言った詩人がいたが、人は一生のうちに何回さよならを口にするのだろうか。


 

 




引用文献


養老孟司 著

『養老孟司特別講義 手入れという思想』(新潮文庫)


レイモンド・チャンドラー 著 村上春樹 訳

『ロング・グッドバイ』(ハヤカワ・ミステリ文庫)