ディズニーの古典的名作と言える『ファンタジア』を、おおよそ四半世紀ぶりに観た。
物心ついて間もない頃、実家のビデオで観た記憶がある。『ファンタジア』本編ではなく、ミッキーマウスが活躍するアニメ短編のオムニバスのようなビデオだった気がする。実家のビデオデッキはしばらく前に両親が処分したはずだ。大量にあったはずのビデオテープも当然捨てられたのだろう。
Wikipediaから基本情報を引用する。
『ファンタジア』(原題: Fantasia)は、1940年のアメリカ映画。アニメーション映画。ディズニー製作、監督はベン・シャープスティーン。1940年11月13日封切。ディズニー長編アニメーション第3作であり、史上初のステレオ音声方式による映画作品である。日本での公式公開は第二次世界大戦後の1955年9月23日であった。
オーケストラによるクラシック音楽をバックとした、アニメーションによる8編の物語集である。一部を除き、台詞は一切用いられていない。全編にわたっての音楽演奏は、レオポルド・スコトフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団が担当した。
今から80年も前の作品という事実に驚く。ウォルト・ディズニーは当時39歳、有名な『蒸気船ウィリー』から12年後、世界初の長編アニメーション映画である『白雪姫』から4年後の作品が本作だ。
引用にあるように、本編は有名クラシック音楽にアニメーションを付随させた映画であり、ミュージックビデオのような作品となっている。約2時間の映画で、ミッキーが出てくるパート『魔法使いの弟子』は10分程度しかない。ミッキーだけを目当てにするディズニーファンは肩透かしを食うと思う。
8つのパートは各々のテイストと面白さがあるが、いずれも オーケストラの実写演奏→音楽に即したアニメーション という流れの構成になっている。物語性があるパートよりも、単にイメージ映像のようになっている箇所が多い。エンタメよりもアートを志向して作られた映画だとわかる。アニメを芸術として世に出そうとしたディズニーたちの気概が伝わってくる。
中でも『魔法使いの弟子』パートは、物語・作画・演出どの要素から見ても優れていて印象に残る。(単純にミッキーが出てくるから一番印象的に見えるだけかもしれないが)
師匠らしき魔法使いから水汲みの仕事を命じられたミッキーは、桶を使って何往復も水を運ぶうちに疲れてしまい、その辺にあった箒に仕事を肩代わりさせようとする。師匠の不在を良いことに、机に置かれていた帽子を勝手に被り、箒に魔法をかけたのだ。ミッキーの目論見は成功するが、水が溢れても箒の水汲みは止まらず、そこら中が水浸し(ほとんど洪水)になってしまい、帰って来た師匠の魔力によってようやく騒動が解決する。要約するとこんな内容になる。
このアニメから原発や311を連想する人は少なくないと思う。思ったので試しに「魔法使いの弟子 原発」と検索したら案の定何件かヒットしたが、ここでは引用しない。
魔法をかけたはいいが、止める方法がわからない、制御できずに大惨事が起こる……1940年に作られた作品に込められた寓意は、科学技術が人間社会を支えていく限り普遍的であり続ける。
本編は、魔法使いの師匠が何やら謎の儀式めいた術を使っているシーンから始まる。師匠の手の動きに合わせて、ピンク色の煙が蝙蝠のような(悪魔にも見える)シルエットで浮かび上がり、やがて輝く蝶の形を成して消滅する。輝く蝶の煙が消えた後、机の上に髑髏が残っているのが見てとれる。
「魔法使い」の類語として「魔導師」があるが、師匠が行使しているのは文字通り魔導なのだ。美しく輝く蝶はそれのみで生まれ出るのではなく、蝙蝠や髑髏といった邪悪で不穏なものから抽出されて初めて出現する。魔を制御し、善きものとして利用する技術を備えた存在として師匠は描かれている。ついでに言うなら、師匠の顔は怖い。ヴィランにすら見える悪役面をしているのは、魔法の使い方次第ではいくらでも災厄を起こせるという底知れない力を有していることでもある。
対してミッキーは何も考えていない。魔法の力を使って楽しようとした挙げ句、惰眠を貪る。夢の中でミッキーは流れ星と海を意のままに操る全能感に浸っている。しかしそれは安逸な夢の中だけの話であり、実際は星や海といった自然現象はおろか、箒の制御すらできない現実が目の前に横たわる。
荒れ狂う水を割りながら戻ってくる師匠は明らかにモーセを連想させるが、とするとこの作品における「魔法」とは科学技術の暗喩である前に、単に聖書的な奇跡の力として読めるのかもしれない。ミッキーは神の力を簒奪した不心得者であり、魔法の帽子は神の力を顕した冠と言えなくもない。信仰心といった論点からも面白い読みができそうだ。映画の最後のパートではサタンと魔物たちが饗宴を繰り広げ、アヴェ・マリアの音楽と巡礼者の映像で締め括られる。製作者サイドが『魔法使いの弟子』にも宗教的意図を込めていたとしても不思議ではない。
いずれにせよ、ミッキーが狂言回しとして機能しているのは疑いようがない。彼が狡い発想で仕事を放棄し、怠惰に陥ることで物語が動く。師匠が命じた水汲みとは、村上春樹が言うところの「文化的雪かき」に近い。退屈な単純作業に見えるが、誰かがやらなくてはならない重要な仕事なのだ。ミッキーはそれを放棄した上に魔法を使って、箒の本分の仕事(床を掃くこと)を奪って別の仕事を押しつけた。あまつさえ、止まらなくなった箒を暴力で抑え込もうとした。箒に仕事を命じたミッキーはこのような暴挙に出るが、ミッキーに仕事を命じた師匠はどうだろう。彼はどんなことがあっても、ミッキーを魔法で操って水汲みさせるようなことはしないと思う。騒動が収束した後も、一睨みして「いいから黙ってやれ!」と言わんばかりにミッキーの尻をつつくだけだった。魔法による強制は即ち暴力であることを、師匠は深く知っているのだろう。
1940年公開ということは、映画の製作中に第二次世界大戦が始まったと推測できる。ディズニーは枢軸国をこっぴどく醜く描いたプロパガンダ作品でも有名だ。戯画的な日本人も登場する『総統の顔』はアカデミー賞短編アニメ賞を取ったらしい。隊列を組んでシステマチックに水を汲み続ける箒の軍団は、見ようによっては軍隊に見えなくもない。そう考えると、魔法の帽子は強大な力を統御する指揮官の証と捉えることができる。公開当時の感想はどうだったのだろう。ちなみにチャップリンの『独裁者』も1940年公開だという。
キングダムハーツシリーズをやったことがあるので、この師匠の名前が「イェン・シッド」だとは知っていたが、これはDisneyの逆綴りらしい。モーセを擬したキャラクターに自分の名前を使うなんて、すごい自信だと思う。
animationの語義は「生命のない動かないものに命を与えて動かすこと」だという。ミッキーが箒に命を吹き込んで動かしたのも、ある意味ではアニメーションだろう。動かないはずの静止画を、あたかも生きているように鮮やかに動かすディズニーの技術はそれこそ魔法だ。魔法使い姿のミッキーがアイコンとして有名になったのも、ディズニーを形容する言葉で「夢と魔法」が多用されるのも、アニメーションこそ魔法なのだという信憑があってこそなのかもしれない。
引用・参考文献

