そもそも自分の国の「国際化」を真面目に議論してきたのは、世界で我が国くらいなものである。外務省自身も、地方自治体に対する姉妹都市への協力などを「国際化支援」と称してきた。
通常「国際化」は、英語訳で、internationalizationで、それは、第一義的には、「国際的管理下に置くこと」である。国連の委任統治が典型なのである。勿論、我が国では、まさかそんな意味では誰も議論していない。
むしろ、「国際化」なる用語は、「追いつき、追い越せ」の枕詞か代名詞のような意味合いで使われてきた。
それは、日本が、何らかの意味で、国際社会(と言っても主として先進欧米社会であった)に遅れをとっているとの認識が前提にあった。外から見れば、外国に学ぶという意味で、謙虚さの表れと受け止める向きもあった。

 しかし、'日本がJapan as No.1'に近づいたとなると、次第に「クールジャパン」となり、それは、富士山や和食日本が世界遺産となってさらに弾みがつき、「ホットジャパン」になり、逆に日本を売り込もうという動きが強まっている。対外的に積極姿勢に転換したわけである。

その動きに水をかける気など毛頭ないが、「国際化」が叫ばれる以前から、日本は、既に相当に国際的であり、普遍的な価値観を確立していたと思う。華道、茶道、書道、香道などの生活文化から、俳句、和歌、日本画、彫刻、建築、さらに歌舞伎や銃剣道や空手にいたるまで、世界の人々の精神文化を豊かにしてきた。
皆と相談し、和を大事にするという一種民主的な17箇条成文憲法、市民社会の形成、宗教改革、商売の自由化、鉄砲隊の創設、先物市場の形成、高率の識字率。それぞれ世界の先を歩んで来た。

だからといって、どっちが上か下かという考えかたは、どこかの国に任したら良い。妙な競争意識は自殺行為である。
我が国には、勿論欠点、弱点も多々ある。あっていいではないか。誇れるものが、これだけあるのだから。PRも大切であるが、学ばんとする謙虚な姿勢も継続しようではないか。それがもともとの日本なのだから。