昨今のいわゆる「クールジャパン」への熱気は、一向に冷める気配がない。それはそれで結構なことだ。
  多くの場合、「良さ」を誇張せず、それをユーモアのオブラートに包み込み、これまで自国やその文化を卑下しすぎた傾向を中庸の道に戻し、だからといって排外主義には陥らず、それこそ「クール」に日本の再発見や新しい日本の発見を論じている。自由で、グロ-バルで、コスモポリタンなのだ。
  それは、いわば若者文化だ。見事な日本語を話す外国の若者達も一緒だ。  新しい日本が生まれつつあるな、と感じる。日本を褒めると、反動的、国粋主義的、ナショナリストなどと非難された時代は、今や遠い過去のようだ。そして、彼らは、ネットのお陰もあって、女性の時代、地方の時代、少数派の時代をも生きている。

    この風潮は、一部の人達が懸念している右傾化とは別物だと思う。日本の色々な側面のうち、良い面を愛する、郷土愛の集積のようなものだからだ。健全な自国を愛する気持ちだと思う。
  愛国心や愛国者は、定義にもよるが、通常いわゆるナショナリズムやナショナリストとは同一ではない。ナショナリストは、排外主義的意味合いを含むからだ。気軽に武力行使をする米国や中国の方が、今日の日本より武力信仰が強いし、かつ遙かにナショナリスティックだとも言えると思うから、その彼らから、日本がナショナリスティックだとは言われたくはない。
    確かに、近隣諸国の領土的野心やたび重なる挑発行為が日本の反感をよんでおり、それが日本人の国民感情や愛国心をくすぐりはしたし、国民感情の高揚はあった。しかし、これも未だナショナリズムと呼べる水準にまでは達していないと思う  また、反感の原因を造ったのは日本ではなく、彼らだということを忘れてはなるまい。そして、日本は、よく我慢していると思う。この事実は、広く国際社会に知ってもらわねばならないと思う。
  いや、靖国や教科書問題があるではないかという反論もあるだろう。しかし、これは、全くの筋違いだ。本年8月末に書いたブログ“いわゆる 「歴史認識」と日本人の反日性と国際的理解”で論じた通りだ。