来年は、1613年に離日した支倉常長渡欧四百年にあたる。その一行の末裔と称する方々の苗字がスペイン語で日本を意味するハポン(Japón)である。
その多くがセビリア(アンダルシア州州都)から南へ10数キロ下ったコリア・デル・リオ(Coria del Rio)市在住である。
約10年ほど前、現地を訪れて、代表の方々にお会いしたが、総勢600人とのお話だった。1996年のミス・スペインも、そこの出身で美しい女性であった。彼らは、武士の末裔を誇りにしていた。
その多くがセビリア(アンダルシア州州都)から南へ10数キロ下ったコリア・デル・リオ(Coria del Rio)市在住である。
約10年ほど前、現地を訪れて、代表の方々にお会いしたが、総勢600人とのお話だった。1996年のミス・スペインも、そこの出身で美しい女性であった。彼らは、武士の末裔を誇りにしていた。
ところが、学問的には、彼らが真実支倉常長一行の末裔であるか否かは未決着である。
複数のスペイン研究の学者が、現地踏査や、スペインの教会に保存された古記録等各種の文献を調査したけれども、確証には至らなかったと聞いている。
複数のスペイン研究の学者が、現地踏査や、スペインの教会に保存された古記録等各種の文献を調査したけれども、確証には至らなかったと聞いている。
そこへ、今日の読売新聞が一面で「ハポンさんDNA鑑定」を報じた。また、それを受けて、フジテレビの小倉智昭公式ブログにも「面白いニュース」として取り上げられている(http://www.og-land.com/blog/index.php?act=date&day=20120411)。
しかし、ハポンという姓の探求は、容易ではない。
まず、ある友人のスペイン学者によると、当時のスペイン語では、日本の訳語には、Japónのほか、Xapón,
Xipón等もある。そうなると、なぜJapónなのかも詰めなければならない。
また、一説によると、コリア・デル・リオ市でハポン姓が初めて登場するのは、17世紀中頃で、そうなら、その時間的ずれも検証されなければならないであろう。1580年代に訪欧した天正少年使節団の子孫という可能性も、ないとは言い切れないかも知れない。
また、一説によると、コリア・デル・リオ市でハポン姓が初めて登場するのは、17世紀中頃で、そうなら、その時間的ずれも検証されなければならないであろう。1580年代に訪欧した天正少年使節団の子孫という可能性も、ないとは言い切れないかも知れない。
スペインだけではない。
例えば、支倉常長一行が太平洋を越えて最初に到着したメキシコのアカプルコには、既に日本人町があったことはよく知られている。そこの誰かがスペイン本国に渡ってハポンを称した可能性はないのだろうか?
また、それより前の16世紀、あの「クオレ」や「母を訪ねて三千里」で有名なアルゼンチンに、ハポン姓を持つ日本青年(Francisco Xapón)がいた。記録に残る南米最初の日本人でもある。
例えば、支倉常長一行が太平洋を越えて最初に到着したメキシコのアカプルコには、既に日本人町があったことはよく知られている。そこの誰かがスペイン本国に渡ってハポンを称した可能性はないのだろうか?
また、それより前の16世紀、あの「クオレ」や「母を訪ねて三千里」で有名なアルゼンチンに、ハポン姓を持つ日本青年(Francisco Xapón)がいた。記録に残る南米最初の日本人でもある。
1596年、21歳の彼は、ポルトガルの奴隷商人に連れられて、アルゼンチンのコルドバ(同国第二の都。首都ブエノスアイレスの西北、直線距離で約650km)にたどり着いた。
彼は、コルドバの奴隷市場で、同市の司祭Miguel Geronimo de
Porrasに落札された。800ドルという当時としては破格の値であった。
その翌年、青年は、コルドバの法廷に対して、「自分は奴隷になるべき者ではない」として、自由を求める訴状を提出し、その2年後、自由の身となり解放された。
残念ながら、彼の本名も出身地も、また、解放後、一時同市の市政に貢献したとの話もあるが定かではなく、その後の消息は明らかではない。しかし、支倉一行渡欧以前からハポン姓が存在していたことが分かる。
さらに、日本の戦国時代から江戸時代初期の期間には、日本の武士団が、東南アジアの各所で活躍していた。
タイのアユタヤ朝は、数百人にのぼる日本武士団を抱えていたし、マレー半島でも、西洋列強(ポルトガルやオランダ)は、その植民地防衛のため、日本武士団を重用していたが、その子孫の可能性も検証されるべきかも知れない。
ちなみに、マレーシアで、現地の歴史に詳しい神父は、「日本武士団が、ヨーロッパの騎士団のように、知的かつ勇敢に闘った」との記録がマラッカの教会に残されていると話してくれたし、マラッカにあるポルトガル人子孫の居留地では、依然ポルトガル語を話し、ポルトガルの文化を細々と継承していたが、その顔つきは、400年以上もたつと、マレー人とほとんど区別がつかないほどになっていた。
ちなみに、マレーシアで、現地の歴史に詳しい神父は、「日本武士団が、ヨーロッパの騎士団のように、知的かつ勇敢に闘った」との記録がマラッカの教会に残されていると話してくれたし、マラッカにあるポルトガル人子孫の居留地では、依然ポルトガル語を話し、ポルトガルの文化を細々と継承していたが、その顔つきは、400年以上もたつと、マレー人とほとんど区別がつかないほどになっていた。
また、一昔前、本邦の全国紙(紙名は失念)で、ハポン姓が南アフリカの白人の旧家にもあったという話が紹介されていた。
果たして、スペインのハポン姓が、いつ、どこで生まれたのか、日本人や日本武士の子孫なのか、支倉常長一行の末裔か?謎は思いのほか深く、DNA鑑定で何がどこまで検証されるのであろうか、結果判明が待ち遠しい。