終戦は、60年以上も大昔なので、終戦記念日でもなければ、めったにあの頃を思い出すこともなくなった。しかし、一旦思い出すと次々と記憶が蘇ってくる。

 東京で夜空に輝く焼夷弾をきれいだと思いながら駆け込んだ防空壕、代々木の練兵場で垣間見た閲兵式での昭和天皇、瀬戸内海ですれちがった潜水艦の旭日旗と艦上に整然と整列してこちらに敬礼する水兵達の姿。
 最初の疎開先は別府で、生まれて初めて浸かった温泉、別府湾に集結した大艦隊と上空を飛ぶ飛行編隊。
 戦況が逼迫して、遠縁が住む新潟県高田市に再疎開。冬は、雁木の庇まで雪が積もり、2階から出入りしたり、スキーもおぼえた。でも家に暖房もなく毎晩寒さに震えた。
 父は、東京勤務だったが、疎開先の母は大変に苦労した。幼いわれわれ4人の子供を抱え、病身の祖母を看護しながら、冬は、徹夜で草鞋を編み、暖かくなると、農家に行って、慣れない畑仕事、田植え、稲刈りを手伝い、野菜を分けてもらっていた。
 ひもじい毎日だった。大きな風呂敷に一杯花嫁衣装や衣服を積み込んで、担いで歩く母について行った。何時間か歩き、大きな農家でそれを物々交換して得たのは、キュウリ3本だった。栄養失調で母は母乳が出なかったから、6才の私は、生まれたばかりの弟のために、早朝リヤカーを引いて牛乳配りのアルバイトもした。お駄賃は、小さな牛乳瓶1本で、そのためか弟は、家族で一番長身に育った。
 ラジオ放送を聞いていると、子供心にも、日本は負けると思った。ラジオで聞くのは、米軍機による日本空襲のニュースや空襲警報発令の連呼ばかりで、日本が米国本土を空襲したというニュースは一つもなかったからだ。
 それを母に言ったら、「そうね。でも、それは誰にも言ってはだめですよ。憲兵に捕まるわよ」と言いながら、「負けたら何が大事になると思う?」と聞かれた。分からないと答えると、「英語よ」。それ以来、母から、こっそりと英語を習った。お陰で英語は得意科目になった。外交官になった一因かも知れない。
 有り難い話もある。違法の買い出しから帰宅した母は、「今日は良い日でした」と言った。団体でトラックに乗って皆で買い出しに行ったのだが、帰りに警官に止められた。母のリュックを開けて調べたお巡りさんは、一番上にあった麻袋(貴重な禁制品のお米が入っていた)を見た。母は、一瞬目をつぶった。しかし、そのお巡りさんは、「あ、カボチャだね」と言って見逃してくれたと言う。
 母は優しく、貧しくても毅然としていた。「さっき下校途中、すれちがったアメリカの兵隊さんがリンゴとアメを僕に渡そうとするんだ。だけどことわってきたよ」と言うと、嬉しそうな顔をした。その後も、その嬉しそうな顔見たさに、兵士からのオファーは全て断った。また、小学校を転校するたびに教科書を手書きで写本してくれたのも母だった。
 戦後も母は祖母を背負って山道を病院まで毎日のように往復した。そして間もなく何年も入院し、比較的若くして永眠した。凄まじくも逞しい一生だったと思う。
 このたびの大震災でも多くの方々が家族をなくされた。言うは易いが、それでも敢えて逞しく生き抜いて欲しいと願う。それが一番の供養だから。