昨今の日本は、天下泰平に眠っているように見える。特に政界がそうである。官僚たたきや小沢たたきもいいが、問題は、その後何を以てどの方向に日本を引っ張っていきたいのかである。それが一向に見えてこない。
これでは、廻りの国々の中には、日本につきいる絶好のチャンスと思う指導者がいても不思議ではない。
尖閣や北方領土を見れば一目瞭然である。

政局に熱中するのは、戦前も戦後も変わりはないが、一つ重要な違いがある。政府首脳が世界に対する見識を持っていたことである。情報を重視し、果敢に日本を導いた人達がいた。
一寸長い話になって恐縮だが、百年前に戻ってみたい。

1903年12月20日在ブラジル堀口九万一代理公使は、小村寿太郎外相から暗号電報で訓令を受けとった。
訓令の趣旨は、「アルゼンチンは、イタリアのゼノアで建造中の2隻の軍艦モレノMorenoとリバダビアRivadaviaをロシアが購入交渉中だが、ロシアが年賦払いを固執して、交渉は難航、一時停滞しているとの情報を得た。ついては、日本がこれを譲り受けたい。代金は契約成立次第現金で全額支払う。貴官は直ちにアルゼンチンに赴き交渉せよ。」というもの。
リオデジャネイロの日本公使館は、当時ブラジルのみならず、アルゼンチンを兼轄していた。
なにしろ、両艦とも、船足が世界で最速で、大砲の射程距離も、当時世界最長の新鋭艦であった。これをロシアにとられるわけにはいかない。
ちなみに堀口九万一は詩人堀口大学の父にあたる。

堀口は、翌日直ちに海路ブエノスアイレスに向けて出発した。長旅である。
ブラジルのリオデジャネイロからブエノスアイレスまでは、直線距離で2000kmある。船旅なら3000km位になるだろう。
ブエノスアイレス到着は、24日の夜中過ぎ。荷物をホテルに投げ込んで、ドラゴ主義(Drago Doctrine)で有名なドラゴ外相邸に直行する。クリスマスイブの、しかも午前2時頃にもかかわらず、根回しよく、外相から暖かく迎えられた。翌25日ロカ大統領、べトベデール海軍大臣とも会って購入の申し入れを行った。
当日は祭日にもかかわらず、臨時閣議が開かれ、電光石火対日売却が決定された。
二日後にはロンドンで代金支払いが行われ、売買契約自体は、その三日後に調印された。

後日ベトベデール自身が日本の大使に語ったところによれば、その閣議で、海軍大臣として「ルソにやるよりはサムライにやった方がいい」と述べたら、一同大笑いのうちに対日譲渡の閣議決定となったそうである。

この経緯には、明治天皇もかかわっておられる。それは、対日譲渡決定の4年前にさかのぼる。
1898年、日本は、アルゼンチと米国ワシントンDCで、平等の修好通商条約を締結した。
これを記念して、翌年8月海軍中佐ベトベデールが艦長となり、フリゲート艦サルミエント号で日本に親善訪問をおこなった。
アルゼンチンは、丁度日本の反対側にあるから、遠路遙々の航海であった。
極めて珍しいことに、この海軍中佐に明治天皇は拝謁を賜ったのである。同行の士官連も一緒に同席を許されたらしい。
陛下からねぎらいのお言葉も賜り、感激したところへ、日本滞在中に広島を含む各地を訪問したが、陛下の拝謁を賜った一行であるから、各地で熱烈大歓迎を受け、すっかり日本びいきになってしまった。
その海軍中佐が堀口公使の訪問の時には海軍大臣になっていたのである。

モレノとリバダビアは、それぞれ日進、春日と命名され、1904年8月の黄海海戦に参加、翌年の日本海海戦では、旗艦三笠搭乗の東郷平八郎司令長官の直率である第一艦隊に所属し、両艦ともその第一戦隊の旗艦として大活躍している。

この両艦が日本の勝利に貢献したことは、アルゼンチンの小学校の教科書にもでていて、誰もが知っている。
ロシアが両艦を購入していれば、日本の勝利はなかったかも知れないのである。
情報、人脈、行動の重要性が身にしみる事例でもあると思う。