宮岸清衛のエッセイと満州悲劇の図書館

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◆満州に関して宮岸清衛が経験した記憶を絵とともに綴たエッセイ。
◆昭和20年8月9日、ソ連軍が日ソ不可侵条約を破りアムール河を渡り侵攻。日本人は逃避行をするもソ連軍の餌食となった。この満州逃避行関連の著書を集めた。

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 ニーハオトイレ    (5)



 2012-3月、孫娘の春休みを利用して、小松空港から上海、無錫、蘇州、紹興、杭州、上海へと高速道路での観光旅行でトイレを観察したが写真を撮影することは難しかった。
 日本だったら警備員等に咎められたかもしれません。 

 


宮岸清衛のエッセイと満州悲劇の図書館  右の写真は蘇州近くの高速道路のパーキングエリアのトイレで大便用の男便所が10部屋ぐらい連なっているのです。

 腰までの高さしか囲いはありません、使用中か否かは外から入ってくると頭が見えるので分かります。

 便器には金隠しがないので前でも後ろ向きでも用は足せるのに中国人は入口に向かって用をします。立ちあがってズボンを上げる時には股間のものも丸見えでした。
 



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      上の写真は小便所には仕切りがありません、お互い                                       

つめれば多くの男子が用を足せます。オーストラリアも同じです。


                
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 左は蘇州の絵画店のトイレです。和式に          扉はありましたが洋式には扉がありませんでした。

 洋式に座ると扉がなく小便をしている人の用足しが見えます。




            
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         左は大便所で常時水を流しているので       
        上流側は綺麗な水が流れています。

    



中国もトイレには投資しているそうですが地方と都市との格差は、貧富の格差に比例しているようです。

 今日の中国のトイレ名称は厠所とヱ生間が主流になっています。 




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   京都へ旅して発見しました。平安神宮のトイレは

  お手洗所と案内版が英語、中国語(厠所)、韓国語

  の3カ国語で書いてありました。4か国以上の国民に

  分かるとは好いことです。



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 左は銀閣寺では東司としか書いてありませんでした。

双方とも中国人には分かる言葉です。

 外国人は日本のトイレが綺麗で戸惑う人が多いそうです。





 日本のトイレは綺麗ですが色んな名称があり、大変戸惑うそうです。

特にウオジュレットを使うときは大変な勇気が必要だそうです。



     古代トルコの写真が友人から送られてきました。


中沢 幸雄さん 提供 


Turkeyのエフェスは紀元前11世紀にイオニア(古代ギリシャ)人により建設。アルテミス神殿を中心に都市国家として発達したもの。

現存するギリシャ文明最大の遺跡で、アルテミス神殿は古代世界七不思議に入っている。


 公衆トイレ、昔はトイレが情報交換の場だったので仕切りがなかった。下には水が流れている水洗便所。訪問は4年前ですが、再度の訪問地でもあります。古代の地で現代を考える事も良い事です。




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ニイハオトイレは終ります。


水洗、洗浄トイレは日本だけです、


これからが日本が進めるトイレです。



  1900万口座、宙に浮く 旧植民地の郵貯43億円!!


 朝鮮半島や台湾など旧植民地(旧満州国)の郵便局に現地人を含む住民や軍人が貯金を預け、払い戻しを求めないまま残されている口座数が約1900万に上ることが18日(平成22年8月)、分かった。残高は利子を含めて約43億円となっている。

 利用者への催告ができないため時効は停止しているが、預け入れた本人が亡くなるなど年々払い戻しは難しくなっており、大部分がこのまま、ゆうちょ銀行で眠り続ける可能性が高い。

 関係者からは、太平洋戦争が終わるころまでに外地で預けた郵便貯金の払い戻しについて、国が積極的にPRすべきだとの声も上がっている。

 管理している郵便貯金・簡易生命保険管理機構によると、貯金口座は中国や朝鮮半島、東南アジア、南洋諸島で開かれたもの。


 内訳は、民間人の外地郵便貯金が約1800万口座、約22億円で、軍人が野戦郵便局などで預けた軍事郵便貯金が約70万口座、約21億円。

 払い戻しを求められるのは、貯金した本人か、その相続人や代理人。

外地郵便貯金の払い戻しには通帳が必要とされていたが外地の所在の証明があれば、軍事郵便貯金と同様、通帳がなくても部隊の在籍証明などで請求できる。

 外地へ戦争に行っていた人、戦前外地で暮らしており戦後引き揚げた人が該当者です。貴方、貴方の祖父・父母・兄弟等が該当者です。


 該当者本人は1900万人もいます、相続人を含めると5000万人にもなります、もしかしたら貴方も該当者です。


請求方法

1. 郵便局から「貯金照会書兼回答書」貰い、必要事項を記入、他は別紙に。
・ 本人でない場合は続柄を証明する戸籍等が必要。

2. 軍人であるが、何処に居たのか、部隊名もわからない人は各県の援護担当に「個人情報開示請求書」を請求し、本人の軍歴証明をしてもらう。

3. 一般人であり、何処に居たのかわからない人は、戸籍で探す、それでもわからない人は各県の援護担当へ連絡をして引き揚げ証明書又は引揚者交付金支給申請書の写しを開示してもらう。

 そこには外地の住所が記されているはず。(本人が書いた書類)

4. 「貯金照会書兼回答書」に2.又は3を添付して郵便局へ提出すれば、約3週間で回答があります。

中国残留孤児にならなかったボク


60余年前(1946)、8月15日の夜、私は葫(こ)芦(ろ)島(とう)港(旧満州)のLSTリバティイ船の甲板で父と母の3人で空を眺めて、新京(現長春)で死んだ弟妹3人の流れ星に祈っていた。


65年以上前の1945年8月9日国境の街、黒河(アムール河畔、ソ連と国境)を離脱し北安に逃れ、此処で終戦を迎えて、新京で極寒の冬を生きのびた。


 白菊小学校?で集団生活をするも、父はソ連参戦時に孫呉の関東軍第123師団に徴集され、敗戦となり、ソ連へ連行途中に脱走した、途中偶然に私たち家族と合流した。


 父は特殊警察官(金沢郵便局電信係を経て、中野学校を経て、徴兵により中野電信隊へ、任期を終えて満州で現地除隊。


 熱河作戦の跡処理のためか、満州国警察官になり(暗号無線技士)になった。このため同胞等からソ連軍、国府軍(蒋介石)、共産軍(毛沢東)への密告され再び捕虜になることを恐れて新京郊外の電車会社の日本人社宅の2階建て官舎の2階に隠れ住んでいた。(社宅の日本人はソ連参戦を機に日本へ脱出)

 当時私は (1935・8・12生)浮浪児もどきをしていた。(5年生)



 父や母の居る隠家へは3~5日に一度ぐらいしか帰らず、満人、朝鮮人、日本人等5~10人くらいの小孩(シャオハイ)(子供)の集団になって

浮浪児になっていた。


 飲食店の裏から入り食べ物をかっぱらうやら、商店、屋台に陳列してある万頭(マントウ)をかっぱらい、皆で分けて食べ、ビルの空部屋に入り込み、盗んできた獲物を見せ合いわいわいがやがやと暮らしていた。
 

 常習の泊まる所はたしか南湖に近い空きビルで元銀行の3階の部屋だった。
 

 もう一つは孟家屯駅(現南長春駅)の南新京寄りの踏み切り番をしている、満人の家だった。
 

 この満人の家には本当によく泊まった、豚を養っており、便所は豚小屋と直結しており、大便は、直ぐ、豚が食べてくれた。


 此処の満人は浮浪児を集めて働かせたり、助けたりしていた。私も石炭を持って行き快く買ってもらい、助けられた日本人孤児の一人だった。

 孤児になっていると思われる子供を連れてくると喜んで面倒を見てくれた。


 特に女の子は喜んで世話をしていた、女の子は元気になると居なくなった、男の子も居なくなったが、女の子は特に良く世話をしていた。


 仲間たちは女は高く売れるからだよの言葉が今も耳に残っている。


 今思うと残留孤児になり自分が誰であるかわからない不明の日本人残留孤児になっているかもしれないのです。


 でも人間として生きていたと思うと死んでしまった子供たちがなお可愛そうになります。


 ある日、隠れ家に帰ると置き手紙をしてあり、日本へ帰るから、新京駅へ行き日本人に聞いて汽車に乗れとあった。


 父からは一人になったら、日本の住所を書いてある紙切れを何枚も持たされておりこの紙を日本人に見せろ!と常々言い聞かされていた。

 だが日本へ帰っても残忍なアメリカ軍が占領しているから奴隷にさせられるかも知れないとも云っていた。


 日本での生活を知らないボクはこのまま満州に残っても構わないとも思っていました。


 屋根裏にはリックサックに雨具等避難に必要な品物を入れたものを隠してあった。勿論、日本の住所を書いた紙は何枚も持っていた。


 私はリックサックをかついで新京駅へ走った。新京駅の片隅に机が一つ協和服を着た日本人がいた。


ボクは父が書いてくれた日本の住所を書いた紙を見せた。直ぐ南新京へ行きなさい!と新京駅から線路伝いに南新京へ行きなさいと手を引いて教えてくれた。



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      最後尾の無蓋車は横の囲いも

      ない、車外へ落ちそうな貨車

      に乗せられた。





 線路の上を走った。止っていた貨車の最後尾の無蓋車によじ登った。


 囲いもない貨車、10人程が真ん中に荷物を置き、振り落とされないように荷物を背によしかかっている人、横になっている人達だった。


 子供は私一人だった。男の人も女の人も病人のように横たわり青白い顔をしていた人もいた。

 汽車は直ぐ発車した。そしてまもなく、止まった。孟家屯駅だった。
しかもボクの乗った最後尾の車両は、踏み切り番の家の直ぐ近くに止まった。

 満人の踏み切り番は遮断機を操作していた、私は叫んだ!


ジャングイ、ジャングイと!!気がついてほしかった!!


 気がついた、満人は走ってきた。ボクは日本人、日本へ行くと話したと思う。


 満人は家から毛布や食べ物を持って来てくれた。なんとも心強いことだった。日本へ帰るなとは言わなかった。


 夕方になるとシャオハイの仲間達も集まり色んな物等食料は十分になった。


 赤い夕日の太陽が沈み、とっぷりと日が暮れてから引き揚げ列車はガッタン、ガッタンとシャオハイ達に見送られながら動き出した。

 無蓋車の夜は寒かった、満人から貰った毛布は寒さを防ぐばかりではない、汽車の石炭粉塵や煙や前の車両から飛散してくる小便等を防ぐためにとても、役にたった。


 汽車は途中給水のために何度も止まった、そのとき皆は一斉に下車して用をたした。


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           無貨車が停車すると、先を争って、排泄行為をする。 

           男も女も恥じることなく、汽車が動く事を心配する

           ことが最優先になる。


 汽車の沿線は糞だらけ汽車の止まる所は何処も糞だらけ、その中を食べ物を売る満人が群がった。私は十分な食料があり、水は大きなヤカンに十分あった。


 これも孟家屯の満人に貰ったもの。私は汽車が止まるたびに、父や母が乗っていないか探した、前の車両、前の車両へと移動したが、父母はいなかった。


 そうして最後に先頭の石炭車にたどり着いた、石炭車は温かいだろうと、一晩石炭車に寝た。

 朝になると顔も身体も、すすで、真っ黒になっていた。
次に汽車が給水のために止まった時、満人の機関士は給水所で私を裸にして洗ってくれた。


 服も洗ってくれた、そして、機関室で暖をとらせてもらい、衣服も乾かしてくれた、あり難かった。


 三晩くらいを過ぎてからか?汽車は砂漠のような木のあまりない、平原を走っていた、茶色い山が連なる中で汽車は止まった。


 下ろされた、そして何時間も線路沿いに歩かされた、荷物は捨てた毛布も、リックサックと少しの食料とヤカンの水だけになった。

 大きな葦で囲んだ収容所に着いた。遠くに海が見えた、青かった。

 男の人が私を連れてアンペラに座っている人々の間を、宮岸さんはいませんか、宮岸さんはいませんかと大きな声で私の手とつないで歩いてくれた。


 間もなく父と母が見つかった、感動はどうだったか記憶にはない、その日直ぐに船に乗った。昭和21年8月15日の晩に間違いない。


 緑したたる美しい日本を見ずして船内で力尽きた人には公海では水葬に港で上陸待ちにに亡くなった方々は日本の土に埋葬されたのでしょう、少し幸せだったかな。



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LSTリバティ船(上陸用舟艇)は

アメリカ軍から借用したものだった。



 母は昨年平成17年3月17日に93歳の生涯を閉じたが、この話は生涯語らなかった。私も語れなかった。

 中国残留孤児にならなかった私は奇跡的に助かり親と合流できたのです。
私に奇跡は当時3回あった。

 奇跡が起きなかった子供たちは死亡したか、孤児になり、中国人に助けられ中国人と信じて生きている人達がいることを忘れてはならない。

   ニーハオトイレ    (4)


昔から日本には、トイレを表す言葉が沢山ある、それを紹介しましょう。

1. 便所(べんじょ)仏教からきた言葉で、便利なところと言う意味。今まで外で済ませたり、部屋も隅でそつと用を足していた人にとって、まさに便利なところだった。

2. 厠(かわや)もともとは川屋。川のそばや、川の上に作った小屋トイレのこと。家のそばに小屋トイレを作る人もあった。

3. はばかり 人の目をさけて(はばかって)用を足すところ。ウンチやオシッコは、なんとなく恥ずかしいから。

4. ご不浄(ごふじょう)表に出せない蔭の存在。「ご」は敬語。ウンチやオシッコを不浄と言うから、トイレ自身も不浄と呼ぶ。

5. 雪隠(せっちん)昔中国の霊隠寺に、トイレ掃除をとても熱心にする雪套(せっとう)和尚と言うひとがいました。この和尚の名前の「雪」と、お寺の名前の「隠」をと;つて雪隠となりました。

6. 手水場(ちょうずば)神社にある手を清めるところが手水場。その名がトイレのそばの手洗い場にも使われ、後にトイレのことになった。

7. 閑所(かんじょ)人が入ってもひまなところ。ひまだからトイレで新聞を読む人がいたり、落書きをする人が多いのです。

8. 東司(とうす)禅寺では寺の東側のトイレを「東司」と呼ぶ。もとは厠の守護神のこと。北川のトイレを「雪隠」、南側を「登司」、西側を「西淨」と呼んだ。京都の東福寺の東司は有名。

9. その他「考えてくる」大便をふんばってくる。「045とかオシッコ」と電話の市外局番で表現する若い人も。等々色々あるようです。



中国東北(旧満)鉄路の旅(2011-9-18~25)で満洲の黒豚は見れなかった。
日本ではハイテク化が進み、アメリカや、中国ではバイオ化でバガスによる発電やバイオ肥料などが有効利用されて脚光を浴びている。日本はどうなんだろう。


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旧満州国時代には黒豚が人間の糞を食べる風景がよく見られたが

今はもう昔物語になってしまったのでしょうか。


中国東北(鉄路)の旅でのトイレの色々!!



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黒河国際ホテルのトイレ兼用の
シャワー室、日本人には寂しい

バスタブがない

                  

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         黒河のレストランのトイレ手前がドアで男用大便は

            ドアに向かってする。金隠しはない右手前にはゴミ

            箱があり、手紙はなしお尻を拭いたらゴミ箱へ、

            左下のボタンは足で踏むと水洗で流す。



                                           
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                ハルビンのレストラン金隠しなし

              水タンクは前面にあってぶら下がってる

              かぎ手を引くと水が出る。左奥の箱は

              使用済の紙を入れる、右手前の棒は

              詰まった時の吸引棒。










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WC公衆ヱ生間はステンレス性で一段上り

小便は便壺後ろの一段上から放尿。大便は

手前すなわち入り口を向いて座る・がんばる。







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小便器の前にある表示、文明化


への明かしでしよう、おわかり。



ハルビンのレストランロシア人も来るでしょう

男でも隣が見えないほうがいい。ましてやロシア

人のでかいのが隣で始めたら・・・










満州悲劇の図書館

黒河公園の公共ヱ生間管理人がおり有料と思いきや無料。


臭わないトイレに慣れてしまった日本人はうのぼれてはいませんか、私の子供の時代はひどかったものです。あんまり顔をしか
ないようにしましょう。つい最近までそうだったのです。


ニイハオトイレを読んで中国のトイレの写真や西洋の古い写真を送ってくれた方がいます。紹介します。

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場所は北京の郊外で1992年5月であり
3家族で共同便所。
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上の中が大きな便ツボに板を渡した。
3~4人が同時に出来る便所です。
平成4年5月の写真です。









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北京市街地の公衆便所男厠と女厠は
別々でした。立派なものです。
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上の公衆便所男厠の中です。扉は
無いのですが入り口が狭いのです。
ニイハオトイレとお話しするには
不便です、全部見えないので少し
日本人にはいいでしょう。もう一つ
横向きですから、恥ずかしさは少ない
でしょう。



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この公衆便所は有料です。
料金小屋があります。
男厠と女厠が別々です。
左のほうにバケツやほうき
が置いてあります、誰か入ると
掃除に来ます、そうして
話しかけます。楽しいです。
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日本の旅行社のパンフレットには
ニイハオトイレについて書いて
ある親切なものもあります。



ニーハオトイレ    (3)


北京オリンピックを前にして、中国は公衆便所の改善に取り組み、ホテルのランクのように公衆便所に星で等級をつけたそうだ。

 日本でも東京オリンピックを前にして東京は公衆便所対策に苦労したそうです。

 それ以前には公衆便所は汚い場所の代名詞だった。


事実私が住んでいた家の便所も暗く汚く汲み取り式だった。
 お釣り対策にみな苦慮したものです。

 ・退避法。  落下と同時に腰を浮かす。
 ・遮蔽法。  落下前に新聞紙等紙を落とす。
 ・揺籃法。  落下前に腰を振り、入射角と反射角をずらす。等々。

                


満州悲劇の図書館  

便壺の深さでお釣りがあるか、ないか、暗い中をのぞき込んだものです。

今は、野糞の時にしか考えられません。
 山の中でキノコ採りに行った時。
 ・まず場所を探す、お尻にチクリと木の小枝、草野の葉等が刺さらないかです。

 私の体験。
 ・まず人から見えない場所に穴を掘り、またいでする、そして埋める。
 ・木や石で両足を乗せられる高さにして乗りまたいでする。

船で魚釣りに行った時。
 ・これは海の中にするのです。小さな漁船やレジャーボートでは、各人が考えてしています。各人が体験してこそ出来ることです。

 私の体験。
 ・波がない時は、船べりからお尻を出してする。海に落ちないようにロープで身体を支えてする。周りに他の船がいないことを確かめて。
 ・波がある時は、アカ取り(水くみのバケツ)に海水を少し入れてする。
 小便も海に落ちないように船べりにつかまってする。波があり身体が安定しない時はアカ取りにして、海へ捨てる。

 震災や災害の時に便所には苦労するものです、今回の震災ではいち早く臨時の公衆便所が設置されたようで格段の隔世感があります。

 北京オリンピック前のある日本人女性が北京のあるデパートのトイレのお話です。


 「繁華街を歩いているとトイレに入りたくなり思いついたのが近くのデパート。

 いろいろ中国のトイレは体験していたが、今は、なんとしてもドアなしとボットンは避けたかった。


 そこで最近出来たデパート内トイレは、入り口で料金を徴収する有料トイレだった。

 有料だから設備はOKと確信し、料金を払った。確かに清潔のようだ、明るいし、中には制服を着たデパートの店員らしき人々で混雑していた。

 これでは順番が廻ってくるまで時間がかかりそうだ。個室に目をやると、ドアがない。しかもごったがえしている人達は、それぞれ、各個室の前に列を作っている。お金を払ってしまってある、背に腹はかえられぬと一番奥の列の後ろについた。

 基本的には、壁も白く簡素で清潔っぽい造りで個室が並んでる。個室の中を覗いてみると便器が一段と高くなっており、小さな金かくしがついた、和式である。


 便器は横向きでも奥向きでもなく、前向き、つまり順番待ちの人に向かい合う位置になっている。便器にしゃがみこむと、待っている人の胸の高さあたりに顔が来るくらいの高さだ。


 私の番がまわってきた、開放感ある個室に踏み込んで、しゃがみこんだ。せめて便器が壁向きか後ろ向きになっていたらよいのになぁ。

 視線を上げると次の順番を待っている人のスカートをまくりパンツを半分下した人と目が合ってしまった。


 これでは出る物も出ない、いくら頑張っても出ない。次の人や周りじゅうから見られている。備え付けのトイレツトペーパーはなかった。しまったである。

 普段ならば鞄の中からまずトイレットペーパーを取り出して手に持って用をたすところだったのを、逆上して忘れていた。

 

 それで、鞄の中から紙を取り出そうと腰を浮かせた。


 そのとたん、しびれを切らした表情の次の番の人が個室に踏み込んでこようとするでないか。ちょと待って!


 と目で訴えながら紙を取り出し、拭いた紙を水を流すと同時に水に流してしまった。

 制服を着たデパートの店員がわめきたてていた。

 

 紙は近くにある紙屑入れに入れるのが中国の便所の常識を忘れていた。

 

 そのままわきめもふらず逃げるように立ち去った、私であった。」 




 ニーハオトイレ    (2)


中国の公衆便所(公共(こんこん)厠所(すうすお))で今も忘れられない印象を受けて、今も公衆便所へ飛び込んだ時にハッとするのは、先客が居るかいないかです。

 我々日本人は先客がいれば失礼しましたとお詫びの挨拶をしてその場を立ち去るでしょう。しかし中国では違います。

平成5年8月の旧満州一人旅で黒河まで行った時、長春(新京)でホテルの裏道の賑やかな道リで便意を感じ、しかたなく公(こん)厠所(すうすお)(公衆便所)を街角でさがしあてて、「清你(ちんにぃ)」と声をかけて入ったら老人が一人こちらを向いて、きばっていた。


 私は思わずニーハオと声をかけたらにこにこ笑いながら「不是」(プシプシー)かまいませんよ。と云われたと思いました。

 便壺は縦1m程、横1.5m程もあり、幅20㎝程の板が4枚掛けてあり同時に4人は大便が出来るようでした。

 老人は私に早くしないのかと催促しているように云っていたようだだったので、やおらズボンを下してしゃがむと、じろじろ見られて、出るものがなかなか出なくなってしまって困惑してしまいました。

 目の前の人はこちらに尻を向けて排便しているし、向こう側のおじさんはタバコをゆらせながら新聞を読みつつ、排便の最中こんなに暗いのに新聞なんか読めるものだなと思いつつも頑張ったが駄目でした。

 老人は何か私に声を掛けて助言しているのだが分りません。
 暗くて辞書を取り出すこともできず出る物は出ないし困惑しました。

 用を果たせずに外へ出ると又その老人が声を掛けてきてホテル、ホテルと云いながら、你(にー)日(りー)本(べん)嗎(貴方は日本人か)と聞かれ「是(しー)」と答えました。

 又ホテル、ホテルと叫んでいるようでした。

 快々(かいかい)的(で)、快々(かいかい)的去(でちゅ)了(ら)と叫んでいるように聞こえ早く早く行きなさいといっているようでした。

 もうひとつ、これは北京の小路にあった店番がいる公厠(公衆便所)へお金を皿の上に置いて入ったら、小便所と大便所区別はあった。

 有料なのかさすが綺麗になっていたが、並んだ大便所の壁は腰の高さまでしかなく扉はなかった。


 しかししゃがめば隠れはするが外からは見えて、隣同志の顔は見えない様だった。

 便壺には水が流れており清潔だが下流は上流から物が流れてきたらそれが道リ越すのを待つ必要があるのかな。

 しかし、この公衆便所の管理人兼料金係は私が大便中、私の分らない中国語で話しかけたり他の大便をしている男とも話しをしていたのには参った。

 人間誰でもすることでも恥ずかしいとか嫌らしいとか思うものだが考えてみると誰でもすることだから恥ずかしくないはずなのに恥ずかしい。
 食事等も高貴な方々は物を食べている所を他人にはあまり見せない、高貴なお方には食べる為の作法があってそれにしたがっている、それが人の上品さをもたらしている。

 西洋文化が入ってきてからはその上品さが崩れ去ったようだ。ハンバーガーを自動販売機で買うと販売機から出てきた食べ物をそのまま口にあてて食べてしまう。

 食べることに関しての恥ずかしさは大部分が失われた文化になったのでしょうかね。

 中国旅行でのトイレの印象はまことに悪い。

 旅行中は水分を控えめにして、用はホテルかレストランで済ますことが常識です。しかしそうはいかないのが旅の面白さです。

 街をぶらぶら歩くと道路の端や家と家との間にトイレ(厠)が多く目立ちます。


 しかし、これは公衆トイレではなく実は個人のトイレの場合が非常に多いのです。なぜなら、中国では各家でトイレを持つことは少なく4~5家が共同で使用しているのです。


 時には人道りの多い街では有料にしている所もあり一度覚えてしまえば用足しには心配はいりません。

 ただニーハオトイレとなることに慣れることです。

 戦後旧満州新京で浮浪児ごときをしていた時に世話になった猛家屯(もうかとん)駅の
    

            踏切り番の家とトイレが下図です。
 
 

満州悲劇の図書館

ニーハオトイレ 


私達のまわりには食べ物、食べることを語る書物は膨大に溢れているが体内を通って出口である排泄物やトイレについて書いた本がまことに少ない。

 社会でも排泄やトイレについて語ることは、恥ずかしいか、はしたないこととして語られることが少ない。

 私はかって痔持ち・便秘症で苦労しトイレのにがい苦しみや恥ずかしい体験をいやほど味わっていました。

 先日の第10回成人喘息ゼミナールの大川先生の特別講演の語り中にこんな短歌の替え歌


七つ八つ屁はこきなれど山吹の実の一つだに出ぬ悲しさ


排泄に苦しむことは身体に悪いとの話があり、トイレと排泄物の苦い経験から書くことにしました。


ニーハオトイレ

 私は旧満州育ち、それでもニーハオトイレは苦手でした。

 ニーハオトイレとは・・・便所の入口に扉がなく仕切りの壁もなく、座って大便をしながら、隣の人とニーハオと挨拶するところからニーハオトイレと云われるようになったそうです。

これは日本人の命名らしいのです。

 中国では便所のことを一般的に“厠所”と呼んでいますが、化粧室、御手洗、衛生間、公衆衛生間と書き日本人も読め分かります。

同じ漢字文化の国だと感じます。

 ニーハオトイレとは日本人が云う中国の公衆便所のことです。


公衆トイレの形状は一定でないところが面白いのです。


満州悲劇の図書館

  



 北京オリンピック前までの北京駅の公衆便所は仕切りの


 ない、水洗便所でした、奥には座式もありました。左側が


です。トイレットペーパーがありました。有料です。


今はどうなっているか知りません。教えてください。




 

満州悲劇の図書館

        入口の扉がありません、隣との仕切りはありますが立つと丸見えです。     


       便器の金隠しは小さいですね。日本人は隣に人が居るとニーハオと云った  


       そうです。                             
満州悲劇の図書館
     金隠しもありませんでした水洗で    




             

     はありません、汲み取り式、臭い


     も大変なものでした。20年ほど前の

     

     ハルビンだと思う。



満州悲劇の図書館

 このトイレは水洗で水流があります。仕切りは2か所で


 3人用です。横向きで大便をするのです。縦の溝は4人以


上になったときに仕切りなしで多くの人が使用出来ます。


ただし、下流は上流からのウンコが流れてくるかも。       

             

満州悲劇の図書館  


       三人が顔を見ながら、お話をしながら大便が出来ます。 

       これはある北京のレストランでした。

                          

                           

 公衆トイレには原則トイレットペーパーはありません。紙がなかったら大変です。水洗の水があれば不幸中の幸いとなるでしょう。

 トイレットペーパーは中国語では”手紙”と書きます。
 衛生紙と書いてある場合もあります。今は衛生紙が本命です。
  

なぜか男女混合はないそうです、“男厠”“女厠”に分かれていて混合は一度だけ使ったことがあります。この話は次回にでもします。

 日本のトイレにはところによって男女兼用のものがありますが、中国では男女の別はきびしく、どんな所でも男女の別は保たれているそうです。

中国では同性同士では肌や性器を見られても比較的おおらかなのでしょう。

 日本ならガソリンスタンド、スーパー、コンビニ、本屋、何処でも用を足せます。

 中国旅行のツアーはガイドがおり心配ありませんが、街中途中だったらニーハオトイレの覚悟は必要です。


 郊外でしたらバスを止めて大豆畑や玉蜀黍畑で用はさせてくれます。しかし、先客の残物を踏みつけないように気をつけましょう。バスに再乗車した時に分かります。

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               街中を歩いていると右の写真のような建物が


             所々にあります、有料あり無料ありです。5角~8角?




4. 証明事項のまとめ(出来る限り2名以上)

ア、 満州国警務庁勤務地在職証明の概要
・ 外務省からの証明による勤務地と警察官位(昭和8年12月から昭和18年9月まで)

・ 安田彦七さんの証明、恩給番号紹介によるもので、父と同年兵で除隊が同じく(昭和8年12月1日)父は満州国警察官に安田さんは満州国民生部新京勤務でした。

・ 小沢小善治さん(黒河省公署省長官房弘報室、身分満州国政府委任官)の証明、宮岸は黒河勤務時代が警察官(警佐)であり無電室勤務、諜報担当で、常時私服でした。

・ 森山堅吾さんの証明は黒河警務庁無電室勤務で、ソ連父の部下でした。
イ、 終戦時の軍籍証明(父は昭和20年8月15日戦闘中)

・ 森山堅吾さんの「宮岸清太郎様について」の証明文による。昭和20年8月14日午前0時、関東軍第123師団第4軍正面、北孫呉陣地、歩兵270連隊(大田喜一連隊長・大佐)第2大隊所属へ。


8月19日武装解除され、宮岸さんの第2大隊は8月23日にソ連へと出発しました。途中3人で脱走射殺されたと聞く、宮岸さんの拳銃と背嚢を示しながらソ連兵が叫んだそうです。

※ ・ 証明にはなりませんでしたが、黒河の官舎で右隣の佐々木さん、(黒河国境警察隊)が孫呉の部隊でソ連軍の砲弾により戦死したこと。

※ ・ 証明にはなりませんでしたが、黒河の官舎で左隣の山岸さんの通やを父が昭和20年8月8日夜行い、それに参列した若林さんが「アムール河畔英霊に捧ぐ」著書 松風 戦史
759ページに「黒河脱出にあたり」の内容にソ連戦線布告の前夜の通やの模様と黒河街の様子を書いてありました。
ウ、 金沢郵便局の在職証明

・ 私が電話と、直接金沢郵政局へ伺い父、宮岸清太郎の履歴書を請求したが、沢山の資料の中から大変だと断られた。しかし石川県からの請求だと直ぐに出してくれた。個人には冷たいものです。
ただし、大正15年4月1日から昭和6年4月21日自己便宜退職の証明がありましたが、以降記録無しで恩給通算年数にはなりませんでした。これが必要だったら・・・。


5. その他 沢山の20数名の方々から励まし等のお手紙などを頂きました。この人たちの情報から満州2世の仲間が増えて毎年東京秋葉原の2世宅に集まり、(関東喘息交流会に出席の都度)満州育ちが懐かしき、かの日々を語り合っています。


※ 著書「運命の舞台」(ダイヤモンド社 平成9年発刊)石橋 信夫 の 
記述には父は特務機関出身者となっていたが、警察官であり、射殺されたのは3名となっていたが2名です。父は無事脱走して日本へ帰えりました。



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 父が何故無謀な脱走を企てたか親戚・知人は不審がっていました。
 父が脱走した理由は、警察官(諜報)

すなわち、日本のスパイであり捕虜になれば確実に銃殺刑になったでしょう
 軍人勅語の一節に「生きて俘囚の辱めを受けず」を忠実に守ったのです。


 平成15年4月から母に恩給扶助料が支給された平成19年3月まで93歳で死亡するまで、年間約94万円の支給を受けていました。
 私は今、父の履歴調査で沢山の知人・友人を得て交流を深め、充実ある後期高齢期を迎えようとしています。


あとがき


 石川県の警察・金沢郵政局が父の職歴を提出してくれていたら母へは恩給扶助料は昭和28年から平成16年まで支給されていたならば生活は変わってい


たでしょう。結果は平成16年6月から約4年間支給されたのです。役所とは全て

否定することから仕事をしていることを実感しました。


もし恩給又は扶助料を請求出来ると思われる方は根気よく役所に対応してください。


                                         おわり


 黒河警務庁分室の在職証明・・・これの証明には困難を極めた。

 満州国警務庁を知る人は、分室の存在を知らない。なぜなら、分室は特務機関の組織と思われていた。そこに出入りする人物は私服が多く、時々出入りする人物も軍人が目立っていたからでしょう。

 分室は黒河省公署敷地内の一角に半地下式の建築物でした。そしてこの無電室は黒龍江河畔にあった150メートル程はなれた場所の特務機関と地下道で繋がっていたそうです。


 それとよく似た建築物は私が現役中に出張で行ったことのある、NTT武蔵野研究所の門を入って左側の建築物が半地下式であり興味があり、尋ねたところ、戦前に地下道の入り口だったのでなかろうかのことでした。
 幼少の頃無電室の父に弁当を届けた思い出の建物の一つです。
 
 ・小沢 小善治さんの証言

 当時の小沢さんの官職、勤務先

満州国黒河省公省省長官房 広報室
身分は満州国政府委任官


 下記の手紙は決定的な宮岸清太郎の職務証明になりました。なお小沢さんは昭和36年にソ連から釈放され帰国して画家として活躍していました。
1945、8、9日当時、小沢さんは新京へ転勤しており、終戦時の徴兵の証明にはなりませんでした。(平成20年2月没)


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 父の満州国当時の消息を尋ねて、全国へ81通の手紙を出し、色んな沢山の返事が、電話、ハガキ、手紙等からあり応対に翻弄されている時、その一つ、


 兵庫県龍野市の三浦 澄さん(当時黒河省孫呉警務庁無電室勤務)から電話、貴殿の父と同じ勤務の黒河無電室の森山 堅吾さんが新潟にいます、と電話があり、電話番号を教えてくれました。

・ 森山 堅吾さんの証言当時森山 堅吾さんは父の部下でした。
(平成14年森山さん
に逢い知りました



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 黒河警務庁無電室勤務森山さんは昭和16年満州へ夢をかけて、黒河警察学校へ入学一ヶ月の研修を得て以降、獏河、呼?等国境警察隊勤務から孫呉


無電室、昭和20年4月黒河無電室勤務ソ連参戦と同時に関東軍第123師団
松風15204部隊歩兵270連隊、入隊(大田喜一連隊長)20年8月19日武装解除、北孫呉収容所へ。

9月1日ブラゴベシチェンスク入り。ソ連各地を転々と移動して重労働に服した。
昭和23年11月26日帰国、復員。(平成20年6月没)

・ 黒河警務庁分室の在職証明

 昭和20年当時黒河警務庁に在籍していた生存者を探して、宮岸清太郎なる人物を知る人を探し出し、昭和20年当時黒河警務庁に在籍していた証明が必要になって来た。

 昭和20年(1945)当時から60年程たった今日、生きて証明してくれる人は、はたして居るだろうか?

 以前金沢の古本屋で見つけた「全国大陸警友会名簿」にあった県別名簿から在満州勤務地が黒河省勤務の人を選び、氏名と都道府県名を便りに、住所と電話番号は図書館の全国電話帳から、調べ上げて81名の方に「私の父宮岸 清太郎」を知りませんかの要旨を書いた手紙を送り返事を待った。

13件の返事があり、手紙が3通、ハガキが7通、電話が3件でした。

 返事はいずれも知らない、大変な時代でしたねよく、生きて帰った、これからも頑張っての趣旨の返事が大半でした。館林市の斉藤猪三郎さんのおくさんが、ハガキに警友会の資料を送りたい、主人が亡くなり資料の処分に困っていたところです。の文面があり、即電話にて資料の送付をお願いしました。

 ダンボール一杯の資料の中に厚さ5cmほどの「満州警友住所録」があり此れには電話番号も記録されていました、でも旧番号(10桁になっていない)、当時であったので変換して使う必要がありました。

 早速黒河警務庁勤務者を探して電話かけっぱなしにしました。返事は該当の電話はありませんでした、がほとんどであり、返事があっても、過去の世からの電話、と思われ胡散くさそうに思われていたようです。

 東京、狛江市の石村 省三さんからの、返事の手紙には「貴殿の父上は身分、警佐とありましたが黒河省警務庁には敬佐は4名でした、全て私は知っています。私が警佐でした。もしかすると、貴殿の父上は特務機関員でしょう。旧満州の特務機関の人を紹介しましようか。」でした。

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郵政省では通信事務員を辞めて何になったのか転勤の記録も、不明であり。退職金を支給した証拠もなく困惑していた。

私が考えるには身分は公務員のまま、郵政省内で潜行させてしまった??

恩給年数が不足だったら郵政省を追求したであろうが、・・・恩給年数は十分だった。




石村 省三 著書 「昭和20年8月9日、ソ連の対日宣戦対する黒河省警務庁の最後の行動」S25.4  の抜粋。

・ ・・(3)黒河特務機関、黒河憲兵隊の行動
現在日ソ中立条約が有効であり、万一ソ連軍が侵攻するとしても10月頃との見方をしていた。
なお、両機関は8月10日午後2時軍の指示に従い、省当局にたいして何等助言することなく家族とともに孫呉に避難して行った。

    警務庁の対応

(3)警務庁内の重要書類(特に分室)の焼却。
父、宮岸 清太郎は黒河では常時協和服、私服、便衣を着用しており、官服(警察官)を着用しなかったため、味方の警務庁職員も知らなかった。

ウ、金沢郵便局の在職証明右の履歴書は石川県援護課が金沢郵政局から取り寄せたものであり 私が金沢郵政局へ履歴書を請求しましたが対応してくれませんでした。個人には冷たいものでした。

S6.4.21依願通信事務ヲ免ズ(自己便宜)からS7.1.9までの期間を郵政省で探してくれる様お願いしたが、記録なしとのことでした。
 私が父から聞いていたのは、東京の中野無線学校へ公費により留学(無線設備の構築、中国語、朝鮮語、ロシア語取得)していた。

S7.1.10中野電信隊へ徴兵入隊。この間の証明が無く公務員通算にならないことでしたが12年以上の勤続は確保できていました。