社会で成功する人のマジョリティは、ホームで必ず勝ち、より多くの人を自分のホームに引き込み、自分のホーム的な行動をより広い社会の文法に仕立てることのできる人だ。
蓄積が力を持ち、力が蓄積を産む好循環を作る。勝ちパターンの基本形をつくり、これを多方面に拡大し(その場合には基本パターンを環境に適応させ変化させる)さらに巨大なホームを作る。自分を中心に社会が周り始める状況を構築する。
アウェイのほうが楽しい人もいる。見知らぬ状況の中におかれ、周りで起こっているモノやコトがいかなることなのかの意味がわからず、過去、一番近かったであろうとそのとき五感が判断した状況の記憶をよりどころに、目の前のことを解釈する。
その解釈はほぼ間違いなく、その場をホームとする人のものとは異なるし、過去自分がやってきたどの解釈とも違うものになる。その結果、アウェイで機能することは、いやがおうでも自分を変えてしまう。その予測できない変化こそが“生きること”そのものとして感じられる。
「自ら機会を作り出し、機会によって自らを変えよ」は、私の最初に入った会社の社訓であった。
この社訓は、多くの人の胸に深く刻み込まれ、OB、OGになってからも、行動や思考の原則として機能している。ただ、今になって振り返ってみると、ここで奨励されていることは、ホームを拡大するために別の領域で基本パターンをアジャストさせる努力をすることを通じて自分を変える、といった話だったのか、自らをアウェイの立場に置き続けて強制的に変わらなければならない状況を作る、という話であったのかが定かでない。
おそらく、会社としてはどちらの変化も了としたのであろう。
前者と認識した人は会社に残って活躍するか、または独立起業し、かなりの確率で元の会社と同じような組織体の会社を作っている。もちろん成功も失敗もある。
後者と認識した人は、ほぼ間違いなく会社を辞めて、ある種の漂流を行っている。漂流自体が自分の“生きること”そのものなのだから、それはそれで楽しい。
たかが社訓なのだが、この社訓にものすごく多くの人が人生を左右されてしまった。
ちなみに私は後者の典型であり、その原型とも言うべき人生となってしまった。
一度しかない人生なので、良かったのか、悪かったのかは判断できないが、前者的に生きろと言われても出来ないものは出来ないから、まあ良かったということなのだろう。