過去の北条氏と新田氏のしがらみを超えて足並みをそろえた、
新田義興と北条時行でした。
武蔵野合戦で新田義興は、時行や従兄の脇屋義治と共に鎌倉
に入り、幕府方の石塔義基を撃破します。
その後笛吹峠の戦いで異母弟の義宗が敗れたことを知ると、
鎌倉から相模・河村城に撤退して兵を再整備し、越後の義宗
と合流します。そして城郭を築き、半国を支配下にしました。
かなりの勇将で、戦のセンスは父の新田義貞を上回ったと思
われます。
それからしばらく過ぎた1358(延文3・正平13)年、
足利尊氏が死去した年に再び関東に入ります。東国の南朝勢
力に決起を促されて武蔵に入ったのですが、そこで騙し討ち
に遭ってしまいます
武蔵の守護の畠山国清の家臣・竹沢右京亮と江戸遠江守が近
づき、「我々は幕府を出奔して来た」と偽ります。そして「
鎌倉に向かう」と言って、矢口の渡から舟に乗せました。し
かし舟は川の真ん中で沈み始め、両岸で伏兵たちが勝鬨(か
ちどき)の声を挙げたのでした。
騙されたと悟った新田義興は、「未来永劫、恨みを晴らして
やる」と言って喉笛を切り、自ら首の骨を折るという凄まじ
い最期を遂げたのでした。
実際に義興は死後、怨霊として恐れられました。騙し討ちの
首謀者の1人である江戸遠江守は義興の霊に怯え、狂死して
います。
現在大田区の武蔵新田に「新田神社」という神社があります
が、これは新田義興を祀ったものです。