今も言いますが、江戸時代は「大坂」のことを指すものとし
て「上方」という言葉が、よく使われました。
しかし元々この「上方」は、「御神のおわす場所」という意
味で使われました。そしてこの「御神」というのは、「天皇」
のことです。そして「天皇がいる場所」といえば、「京都」
です。つまり「上方」は、「京都」のことだったのです。
ただしそこは「商人の町」としてすでに基盤を築いていた大
坂だけに、京都に便乗する形で範囲を広げ、自分たち大坂の
ことも、「上方」と称したのでした。その方が江戸に対する
営業的に、有利だったのでしょう。
京都にしても、江戸に政治も首都的役割も奪われてはいます
が、朝廷はまだ京都にあるし、長らく日本の中心として栄え
ていた自負もあるので、「天上」という意味の言葉で自分た
ちを「上方」と名乗っていたわけです。だから商売上のメリ
ットのために大坂までが「上方」と称すことは、面白くなか
ったはずです。その証拠に、京都から大阪に行くことを京都
人は「下る」と言っていたそうですから。
ただし江戸幕府や江戸人はそんな京都や大坂の思惑はどうで
も良かったようで、京都も大坂も同様に「上方」としていま
した。
また幕府は、直轄地の領地経営を任せる代官に関して、現在
の愛知県に相当する三河を含めてそこから東側の代官を「関
東代官」と呼び、三河より西の地方の代官を「上方代官」と
呼んでいたそうです。