1651(慶安2)年に起きた、俗にいう「由井正雪の乱」
ですが、実際には「乱」と呼ぶほどのものではありません。
事前に発覚して潰されたため、反乱は未然に防がれています。
その割に後世まで語り継がれているのは、こういうことをし
てはならないと世間に知らしめるための抑止効果もあります
が、世間に与えた影響や教訓が大きかったことも大きな理由
になると思います。
由井正雪は優秀な人材ではあったし、その目的も一理あった
ようでした。江戸幕府は2代目将軍・秀忠と3代目将軍・家
光の時代に多くの大名を取り潰したために生じた浪人たちの
不満を代弁するために由井正雪は立ち上がった面もあったこ
とっは事実です。
そして由井正雪は楠木正成の伝記に学び、軍学を研究もして
いました。そして若い頃、その軍学の師匠を暗殺して菊水の
小旗、正成の短刀、軍学書を奪ったという蛮行と成功体験も
あり、そのことから天下への野望も生まれたようです。
そして同志を1000人余り集めたことは、なかなかに人望
と吸引力もあった証拠です。しかし幕府を倒して天下を取る
という大き過ぎる野望を果たそうと思ったら、1000人で
は足りな過ぎます。しかも事前に発覚してしまったのだから、
どうにもなりません。
ただしこの後、4代将軍・徳川家綱は、徹底した文治政治を
唱えます。政治が悪いと反乱が起きるという危険性、そして
同時に必然性も痛感したのでした。
従って、支配者たる武士は学問を身につけ、人々が納得する
ような善政を敷かねばならないと結論付けたのでした。その
おかげで政治の安定と経済の発展がもたらされ、平和を象徴
する元禄時代つながって行くのです。由井正雪がもたらした
教訓ともいえますね。