織田信長の高野山との衝突は「本能寺の変」と関係がなかったのか? | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

ブログの説明を入力します。

これまでに何度も書いて来ましたが、織田信長が無宗教で神

を全く信じなかったというのは間違いだと思います。

 

比叡山延暦寺焼き討ちは歴史解釈上の誤りだったことが判明

していますし、しかも当時延暦寺はマトモな僧侶が去って荒

くれの僧兵ばかりが集まり、麓の町で狼藉を働いて庶民を苦

しめていました。そうした僧兵たちと比叡山の麓で戦いをし

たというのが、真相です。

 

この延暦寺焼き討ちという疑惑と一向宗軍団との長年の戦い

が、織田信長の「神を信じない」という解釈につながったわ

けですが、彼が宗教を信じていたという形跡も一方ではあり

ます。

 

言えるのは、織田信長がインチキ宗教を徹底して嫌ったこと

と、宗教が政治を支配するのが許せなかったというところだ

と思います。政治を動かそうとしていた宗教の代表が一向宗

と比叡山延暦寺、そして高野山とキリスト教でした。

 

そして実は織田信長は、高野山とも対立していたようなので

す。高野山に関しても、比叡山延暦寺の僧兵たちほどならず

者化してはいないものの、武装化は大いに進めておりました。

このままエスカレートすれば延暦寺化するだろうという危惧

を、信長は抱いていたようです。

 

そんな中での1580(天正8)年、信長に背いた荒木村重

の家来が高野山に身を寄せました。これを機会に信長はとう

とう、高野山攻めを決意したそうです。そして三男の神戸信

孝に高野山攻撃を命じたということです。

 

信孝率いる軍は高野山麓を焼き払い、多くの高野聖を殺した

とされます。しかし僧兵たちが強力だったため、山中へは踏

み込めなかったそうです。

 

ただし軍が引き上げたわけではなく、軍勢は麓に滞留したま

ま睨み合いを続けたということです。そんな状態のまま2年

が過ぎ、あの「本能寺の変」で織田信長は命を落としたので

した。

 

この高野山攻めは、本能寺の変と関係なかったのでしょうか

?あったと考えた方が、自然と思われます。そして高野山の

深い歴史を考えれば、バックにいる勢力は巨大と考えて良い

でしょう。少なくとも朝廷は、味方です。そしてそれまでの

延暦寺や一向宗軍団との軋轢を考えれば、高野山のバックに

いる勢力が織田信長に危険さを感じるのが通常と思えます。

 

そう考えると、「本能寺の変」の実行犯は明智光秀ですがそ

の背後に巨大勢力が動いていたと考えるのが妥当かと思いま

す。