伊藤博文は幕末に松下村塾で学んだ後、尊王攘夷運動に携わ
っていまっした。そんな中、1862(文久2)年12月にと
んでもないことをしてしまいます。
当時1歳だった伊藤博文は、国学者の塙忠宝(ただとみ)と
その友人を、同志の山尾庸三と組んで暗殺してしまったそう
です。
動機は、勘違いでした。塙はその時、幕府の命令で「幕府が
外国人を遇した例」を調査していました。それを、天皇制の
廃除に動いているものと誤解し、殺してしまったのです。
塙忠宝は12月21日、若の会から帰宅した際、住居前で襲
撃され、翌日に死亡しました。
伊藤と山尾の2人は、翌年イギリスに極秘留学しています。
これも実際には、逃亡と見られています。
しかし伊藤はロンドンで英語などを学んだのも確かでして、
そこで日本との国力の差を実感しました。そして「攘夷論」
から「開国論」に考えを転向させたのです。
その後伊藤は初代総理大臣になるのですが、ここで殺人犯と
バレていれば、勿論総理大臣になれなかったでしょう。後に
渋沢栄一によって、暗殺犯は伊藤博文と山尾庸三であると発
表されました。証拠も示されていて、大正時代の後半にはこ
れが定説となりました。つまり、伊藤博文は殺人犯というの
が、常識化されていたのです。
昭和になってあまり言われなくなりましたが、話題になるの
を政府が避けただけで、否定は一切されていません。