平将門は939年11月、朝廷との軋轢からついにブチ切れ、
常陸国府を襲撃。国司の印鑑と倉庫の鍵を強奪しました。こ
れが、「平将門の乱」の始まりとされているようです。
そしてそれより一足遅れて、瀬戸内海では藤原純友が乱を起
こし、伊予と讃岐の国府を制圧しています。これが、「藤原
純友の乱」です。
ただし歴史上では、この2つをまとめて「承平・天慶の乱」
ということが、多いようです。何故かというと、当時の朝廷
は将門と純友が共謀関係にあると思っていたからのようです。
当時の会議記録によると、この東西で起きた2つの乱は同じ
会議で行なわれ、明らかに「共謀」を前提として扱われてい
るのです。また平安後期の『大鏡』や南北朝時代の『神皇正
統記』といった歴史書も、共謀を前提として2つの反乱を記
録しているのです。
しかし現代ではそれを否定的に見る研究者が多く、平将門と
いう武士が関東で反乱を起こしているという情報を耳にした
藤原純友が、そうした混乱状況に便乗する形で反乱を起こし
たと見るのが、正しいようです。
藤原純友は、伊予で海賊を取り締まる仕事をしていた、地方
官でした。しかし任期が過ぎても帰京することなく、自らが
海賊のリーダーになってしまったのです。
その反乱は突然に起こしていますが、やり口としては、かな
り計画的で、取締役をしていた時から計画を練って準備をし
ていたものと思われます。
一方の平将門は、それまでも朝廷と衝突を繰り返しており、
呼び出しに応じて出頭と弁明もしています。なので反乱は早
くから計画していたものではなく、避けようとしていたのに
とうとう我慢出来なくなってやってしまったという内情のよ
うです。
その後の戦いを見ても、純友が冷静なのに対し、将門は無鉄
砲なところが多いです。あまりに2人の性格ややり方に差が
あり、もし共謀したら上手くは行かないと思われますね。