婆裟羅(バサラ)大名の土岐頼遠が光厳上皇に対して蛮行に走った理由 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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1342(康永元)年9月6日、美濃の守護大名・土岐頼遠

が笠懸の帰り、光厳上皇の牛車に出会いました。しかし頼遠

は、道を全く譲ろうとしません。

 

そのことを上皇の配下が咎めると頼遠は、「院(いん)とい

うか犬(いぬ)というか、犬なら射ておけ」と罵って、牛車

を蹴倒したそうです。一説には、矢を放ったという話もあり

ます。

 

この逸話は、以前にも扱いました。割と有名です。そしてこ

れは、当時不良武士を言い表すのによく使われた「婆裟羅(

バサラ)」大名の酒に酔っての暴走として扱われ、私もここ

でそういう扱いにしたと思います。

 

しかし昨日も書きました「極楽征夷大将軍」(垣根涼介著)

を読んで、少し認識を変えました。勿論、小説を鵜呑みにし

たわけでなく、当時の背後関係を調べて納得した次第です。

 

後醍醐天皇による建武の新政が始まったものの、倒幕に貢献

した武士たちへの恩賞が乏しいばかりでなく、政治を公家中

心に戻そうとして武士を低く見る傾向が顕著だったため、武

家の皇族を中心にした公家に対する怒りは頂点に達していま

した。その怒りと不満の表れが形となって出てしまったのが、

土岐頼遠の狼藉なのです。

 

従って、やった行為は蛮行・暴走以外の何物でもないのです

が、心理としては、そうなる要素も多分にあったのです。

 

この暴走は足利尊氏の弟の足利直義の大いなる怒りを買い、

一方で土岐頼遠に同情した高師直がかばったことで、二人の

間にしこりが生じています。

 

ただ頼遠にとってマイナスだったのは、光厳上皇が足利家た

ちが擁立している「北朝側」だったことです。要するに皇室

は1つではなく、後醍醐天皇にいくら問題があっても皇室自

体をなくしてしまうわけには行かないので色々手を尽くして

北朝という新たな皇室を擁立したわけです。

 

なのにその新しい皇室である北朝側の光厳上皇に対してそう

した蛮行をしたのだから、足利直義の怒りは当然なのですね。

結局土岐頼遠は処分されましたが、お家断絶は高師直や夢想

礎石の尽力で免れました。師直の言い分も、わかります。た

だし乱暴者をかばったせいで高師直も、後世に乱暴者として

伝わることとなりました。