千利休の弟子の古田織部も不可解な切腹をしていた! | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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信長・秀吉・家康と3人の天下人に仕えた古田重然という武将がい

ますが、この人物はもう一方の「古田織部」という茶人としての名

前の方がよく知られます。

 

千利休の一番弟子で、利休が死んでからは天下一の茶人と呼ばれ続

けました。

 

千利休の弟子といっても決してコピーではなく独自の茶風を開発し

ていたのですが、それも利休の「独自のものを開発しなさい」とい

う教えを守ったものなので、逆に利休の弟子にふさわしいものだっ

たといえます。

 

ただしこの古田織部ですが、死においても師匠と非常に似通ってい

るのです。千利休は豊臣秀吉に切腹をさせられましたが、古田織部

は徳川家康に切腹させられたことになっています。

 

大坂夏の陣の際に、古田織部の家来である木村宗喜が豊臣家に内通

し、家康暗殺の謀議を企てたという一件がありましたが、織部もそ

れに加わったという疑惑です。

 

濡れ衣と思えますが、織部は何の弁明もせず、あっさりと切腹をし

てしまいました。72歳でした。

 

これは織部が疑惑を認めたというわけではなく、むしろ反発の意図

があったと思われます。また家康側も、本気で切腹をさせようとし

たのではなく、むしろ弁明を期待と予想した可能性が大です。

 

古田織部は、「超」のつく資産家でした。一方で家康はこの時点で

は、金欠ではないものの、まだ超資産家というほどではありません。

そして、功績のあった部下への報償が足りていないという悩みがあ

ったようです。

 

家康が超資産家になったのは豊臣秀吉の遺産を没収してかたなので

すが、それとともにこの織部の資産に目を付けたというのが真相で

はないかとされているのです。

 

古田織部の莫大な資産を没収し、功績のあった武将たちへの報償に

当てようとしていたということです。実際、後にそうしているのだ

から、当初から「財産狙い」だったのは確かでしょう。

 

家康としても、織部の命まで奪う気はなく、罪を追求し、弁明した

ところで助命を許し、財産だけ没収するつもりだった。勿論その後

の埋め合わせはする心づもりだったのでしょうが、織部は相手のそ

うした魂胆を見通し、乗らなかったということでしょう。

 

あえて家康の意に沿うような格好の悪い延命をしたら、茶人として

の格にも影響する。それよりは、ここできっぱり腹を切る方が潔く、

弟子たちにとっても好影響だろうと考えたのだと思われます。