ジゴロ将軍・足利義政は何故モテたか? | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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金も権力もなくなった足利義政ですが、側室は増やし続け、

40数人まで膨れ上がった。モテたわけです。何故そんなに

モテたか?というわけで、今日は昨日の続きになります。

 

彼の女たらしの原点は乳母で教育係だった今参局の幼少

時の性教育にありますが、ただし今参局も、そればかりを

していたわけではありません。学問と芸術についても、たた

き込んでいたようです。

 

政治についてだけ教えなかったわけですが、それも狙いか

もしれません。政治オンチ、武道にも興味がない。そんな武

士らしさのないまま育ってくれた方が、扱いやすいのでしょう。

裏で政治を操ろうとしていた今参局にとっては、都合が良か

ったと思われます。

 

そして彼女の学問と芸術の教育は、実を結びました。茶の湯

と俳諧、そして美術面で、大いなる才能を発揮したのです。日

本の伝統である「わび・さび」文化は、足利義政が元祖でした。

そんな、芸術家で教養人としての足利義政の資質に、多くの

女性が魅かれたのです。

 

きらびやかで権勢を象徴するような金閣寺に対して義政の建

立した銀閣寺は、彼の芸術的志向が表れた、いたって質素な

ものでした。金がなかったからというより、義政が質素を好んだ

のです。「銀閣寺」という命名も後世につけられたもので、彼が

銀に興味を示したわけでもありません。

 

ところで今参局ですが、日野富子との衝突をエスカレートさせた

挙句、謀略にはめられて流島となり、その先で暗殺を試みた追

手たちの前で切腹をし、自ら内臓を引き出して追手に投げつけ

て仁王立ちのまま息絶えるという、壮絶な最期を遂げています。